| 訓読 |
1109
さ檜隈(ひのくま)檜隈川(ひのくまがは)の瀬を速み君が手取らば言(こと)寄せむかも
1110
斎種(ゆだね)蒔(ま)く新墾(あらき)の小田(をだ)を求めむと足結(あゆ)ひ出(い)で濡(ぬ)れぬこの川の瀬に
1111
古(いにしへ)もかく聞きつつか偲(しの)ひけむこの布留川(ふるかは)の清き瀬の音(と)を
1112
はねかづら今する妹(いも)をうら若みいざ率川(いざかは)の音のさやけさ
| 意味 |
〈1109〉
檜隈、そこを流れる檜隈川の流れが速いので、あなたの手に引かれて歩めば、あれこれと世間に噂されるでしょうか。
〈1110〉
祈り清めた籾(もみ)を蒔くための、新しく開墾する田を求めて家を出立してきたが、その足結を濡らしてしまった、この川の瀬で。
〈1111〉
遠い昔にも、このように耳を傾けて聞いただろうか、この布留川の清らかな瀬音を。
〈1112〉
はねかづらをつけた彼女の初々しさに、さあおいでと誘ってみたい、その”いざ”という名の率川(いざかわ)の川音の清々しいこと。
| 鑑賞 |
「河を詠む」作者未詳歌4首。1109の「さ檜隈」の「さ」は接頭語で、「檜隈」は、明日香村の檜前(ひのくま)付近の地名。当時は渡来人が多く住み、異国文化と活気にあふれた地だったといいます。「檜隈川」は、奈良県高市郡明日香村を流れる川で、高取川の支流。「瀬を速み」の「速し」のミ語法で、流れが速いので。「言寄せむかも」は、噂が集まるだろうか。農作業を終えた夕刻、帰り支度をして、思いを寄せる男の手につかまって川を渡る、そんな初々しい乙女の姿が彷彿とされます。流れが速くて足元が危ういから、という理由があれば、公衆の面前でも堂々と大好きな人の手を取ることができます。また、「言寄せむかも」という言葉には、単なる不安ではなく、噂になっても構わない、いっそ噂になって既成事実化してしまいたい、という、積極的な恋の熱量が隠れているかのようです。1108までの歌が純粋に川の美しさを讃えていたのに対し、ここでは川は恋の舞台装置になっています。
1110の「斎種」は、神に捧げる、あるいは神聖な儀式としてまく大切な種籾。「新墾」は、新しく開墾すること。「小田」の「小」は、美称。「求めむと」は、探し求めようとして。ここから、豊作を予祝する農耕儀礼として、新しい神田を開墾して斎種を蒔いたことが知られます。「足結」は、活動しやすいように袴の膝下あたりを結んだ紐。ここでは、神事を行うための装束だったかもしれません。「出で濡れぬ」は、出てきて、濡れてしまった。「ぬ」は完了の助動詞で、実感を伴う言い切りです。
1111の「かく聞きつつや」の「かく」は、このように。「や」は、疑問的詠嘆。「偲ひけむ」の「偲ひけむ」の「偲ふ」は、ここは賞美すること。「けむ」は上の「や」の係り結びで、過去推量の助動詞「けむ」の連体形。「布留川」は、原文「古川」で、天理市の布留の地を流れる布留川とするのが通説となっていますが、文字通りに「古い川」と解するものもあります。「音(と)」は「音(おと)」の古語。
1112の「はねかづら」は、年ごろに達した若い娘がつける髪飾りとされます。「今する」は、初めて用いる意。成年の儀式でもあったのかもしれません。「うら若み」の「うら若し」のミ語法で、うら若いので、初々しいので。「うら」は、心。上3句は「率川」を導く序詞。情事を誘う「いざ」と「率川(いざがは)」を掛けています。「率川」は、春日山を発し佐保川に合流する小さな川。開化天皇の皇居が「率川の宮」と呼ばれ、「率川の社」では毎年4月に三枝祭(さいぐさまつり)が行われるなど、古くから知られた由緒ある川です。窪田空穂はこの歌を、「人の行為と自然とが、生き生きとした状態において微妙に調和している」と評しています。

『万葉集』クイズ
それぞれの歌の〇の中に当てはまる語を、ひらがなで答えてください。
【解答】 1.つき(月) 2.なみ(波) 3.こと(言) 4.くも(雲) 5.よぶこどり(呼子鳥) 6.ひめゆり(姫百合) 7.ゆき(雪) 8.すだれ 9.しほ(潮) 10.がき(餓鬼)
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