| 訓読 |
1113
この小川(をがは)霧(きり)ぞ結べるたぎちゆく走井(はしりゐ)の上に言挙(ことあ)げせねど
1114
我(わ)が紐(ひも)を妹(いも)が手もちて結八川(ゆふやがは)またかへり見む万代(よろづよ)までに
1115
妹(いも)が紐(ひも)結八河内(ゆふやかふち)をいにしへのみな人(ひと)見きとここを誰(た)れ知る
1116
ぬばたまの我(わ)が黒髪に降りなづむ天(あめ)の露霜(つゆしも)取れば消(け)につつ
1117
島廻(しまみ)すと磯(いそ)に見し花(はな)風吹きて波は寄すとも採(と)らずはやまじ
| 意味 |
〈1113〉
この小川に白い霧が立ち込めている。たぎり落ちる湧き水のところで、言挙げなどしていないのに。
〈1114〉
私の着物の下紐をあの子が結い固める、その”結う”の名がついた結八川、この川をまた訪ねて眺めよう、いついつまでも。
〈1115〉
あの子が下紐を結うという名の結八川、その河内の景色を昔の人も眺めていたというが、それを誰が知ろう。
〈1116〉
私の黒髪に空から降りかかってきては溜まる露霜を、手に取っても取ってもすぐに消えてしまう。
〈1117〉
島をめぐっていたら磯辺に花が咲いていた。風が吹いて波が激しく寄せてこようと、あの花を手に入れずにおくものか。
| 鑑賞 |
1113~1115は「河を詠む」作者未詳歌。1113の「この小川」は、いま目の前を流れる小川に、の意。「霧ぞ結べる」は、霧が立ちこめている。「結ぶ」は「凝る・立つ」の意。強調の「ぞ」+「結べる(連体形)」の係り結びになっています。これにより、単に霧が出ているという事実を述べるのでなく、(他の場所ではなく、まさに)この小川にこそ、霧が立ち込めているのだという、作者の視線がその光景に強く注がれている様子を強調しています。「たぎちゆく」は、激しく流れている。原文「瀧至」を、タギチイタルを縮めてタギチタルと訓むものもあります。「走井」は、勢いよく湧き出る泉。「言挙げ」は、言葉に出して言うこと。言挙げをすれば霧が立つという信仰を踏まえた歌とみられ、また、この歌から「井」が言挙げ、すなわち誓いの言葉を言う場であったことが窺えます。『古事記』『神代記』にも、天(あま)の真名井(まない)で天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約を行ったという記事があります。
この歌は、願っているだけで言挙げをしないのに霧が立ち込めたのを喜んでいるものです。山の雲や川の霧がさかんに立つことは、農耕に必要な豊かな水が得られる前兆とされました。だから、「この小川」に願い通りの霧が立ち込めたことが、今年の豊作のために喜ばれたのです。農耕儀礼の場での歌だろうとされます。あるいは、秘めた恋の歌であるとして、「この小川には霧が立っている。激しく湧き流れる清水の上に立ちながら、私は言葉にこそ出さないけれど、胸の中には抑えきれない思いがあるのだ」のように解釈する立場もあります。
1114の上2句は、我が紐を妹の手で結うと続け、同音の地名の「結八川」を導く序詞。男女が交わったあと、互いに相手の衣の紐を結んで再び逢うまで解かないと誓い合った習俗を、序詞の形で言っているものです。「結八川」は、大和国内の川とみられるものの所在未詳。「またかへり見む」の対象は、結八川。作者は、目の前にある「結八川」という名を聞いて、別れの時に妻が紐を結んでくれた感触を思い出しています。名前に「結」という字が入っているだけで、その川に不思議な縁を感じ、再会を確信しているのです。
1115の「妹が紐」は「結八」の枕詞。前の歌の序詞と同じ習俗に基づいており、男の立場から、愛する女の紐を「結ふ」と掛けています。「結八河内」は、結八河の河内で、「河内」は川の両岸一帯、あるいは川そのもの。「ここを誰れ知る」の「ここ」は「いにしへのみな人見き」を指します。「誰れ知る」は、誰が知っているだろうか、たとい誰が知らなくても、立派な由緒ある川なのだ、の意。前の歌と同じ作者とされ、女の家を出て、女の住む結八川の河内を眺め、しみじみと女を可愛く思う心から詠んだものです。
1116は「露を詠む」作者未詳歌。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「降りなづむ」の「なづむ」は、滞る、溜まる。ここは降ってきて留まる意。「天の露霜」の「露霜」は、冷たい露または露が凍って霜になったもの。「天の」は、天上から来るものとして添えた語で、ここは霙(みぞれ)を意味しているか。「取れば」は、取ろうとすると決まって、の意。「消につつ」の「つつ」は、詠嘆。若い女が、自分の髪に露の置くような寒い夜更けに、戸外に立って通って来る夫を待ち続けている歌とみられます。
1117は「花を詠む」作者未詳歌。「島廻」は、島めぐり。「磯に見し花」の「磯」は、岩の多い海岸。「見し花」は、磯辺で見かけた花。花を土地の美少女に喩え、「風吹きて波は寄すとも」と、容易に近づけない、得難いものとして言っており、それでも「採らずはやまじ」と、二重否定の形で、手に入れないではおかないぞと、猛烈な決意を言っています。障害があればあるほど燃え上がる恋心の吐露であり、旅先の宴席での歌と見えます。

こと(言・事)
言葉を意味する「言(こと)」と事柄を意味する「事」とは、元来相通じる概念であった。モノが言葉による認識以前に存在するのに対して、コト(事)は言葉による認識作用・形象作用によってこそ形を与えられるためである。
『万葉集』の相聞歌にしばしば歌われる「人言(ひとごと:周囲の噂)」の多くが、原文に「人事」と記されているのも、「言」と「事」とが相通じる概念であったことを示しており、現代において「さっき話したこと、絶対内緒だよ」などと言った場合の「こと」が言葉であるのか事柄であるのか不明瞭である点にも、それは引き継がれている。
「言」と「事」とが相通じるところに生じてくる信仰に「言挙げ」がある。「言挙げ」とは、日常の言葉とは異なる様式によって、祈りをこめて言葉を発することであり、「言挙げ」の力によって「言」として発された内容が「事」として実現するという信仰である。その言葉に「言霊(ことだま)」が宿っているからだと考えられていた。ただし、言語呪術である「言挙げ」はむやみに行うものではなかった。「言挙げ」はよほどの危機を乗り越えるために行われるものであったようである。
一方で『万葉集』には、「言」が「事」でなかったことを言う「言にしありけり(ただの言葉だったのだ)」という表現もしばしば用いられている。一見矛盾のようにも見えるが、両者は硬貨の裏表に過ぎない。一方に「言」が必ずしも「事」ではない意識が芽生えることによって、逆に「言」には言霊が宿り、「事」によって実現するという信仰が強く意識されるようになったのである。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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