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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1180~1184

訓読

1180
荒磯(ありそ)越す波を畏(かしこ)み淡路島(あはじしま)見ずか過ぎなむここだ近きを
1181
朝霞(あさがすみ)止(や)まずたなびく龍田山(たつたやま)舟出(ふなで)せむ日は我(あ)れ恋ひむかも
1182
海人(あま)小舟(をぶね)帆(ほ)かも張れると見るまでに鞆(とも)の浦廻(うらみ)に浪立てり見ゆ
1183
ま幸(さき)くてまた還(かへ)り見む丈夫(ますらを)の手に巻き持てる鞆(とも)の浦廻(うらみ)を
1184
鳥じもの海に浮き居(ゐ)て沖つ波(なみ)騒(さわ)くを聞けばあまた悲しも

意味

〈1180〉
 荒磯を越していく波が恐ろしくて、淡路島を見ずに通り過ぎてしまうのだろうか。こんなに近い島なのに。
〈1181〉
 朝霞が絶え間なくたなびいている龍田山。いよいよここを発って舟出する日になったら、さぞかしこの山を恋しく思うだろうなあ。
〈1182〉
 漁師の小舟が帆を張っていると見えるほど、鞆の浦に波が立っているのが見えるよ。
〈1183〉
 無事に帰ってきてまた見よう、立派な男子が弓を射るとき手に巻いて持つ鞆、その名のとおりの鞆の浦よ。
〈1184〉
 鳥でもないのにまるで水鳥のように海に浮かびながら、沖の波が激しく騒ぎ立てているのを聞くと、あれこれと数限りなく悲しさがこみ上げてくることだ。

鑑賞

 作者未詳の「覊旅(たび)にして作れる」歌5首。1180の「荒磯(ありそ)」は、アライソの約。磯は石の多い海岸。「波を畏み」は、波が恐ろしいので。「~を~み」は「~が~ので」と理由を示すミ語法。「見ずか過ぎなむ」は、見ずに通り過ぎてしまうのか。「ここだ」は、甚だしく、こんなにも。「近きを」の「を」は、詠嘆。明石海峡を航行中に詠まれた歌らしく、当時の船は櫂や櫓を用いた手漕ぎの船だったので、万葉人にとって明石海峡はまさに魔の海峡であり、その潮流を乗り切ることは容易でなかったとみられます。

 
1181の「朝霞止まずたなびく」の「朝霞」は春の季語とされ、「止まず」という表現には、絶え間なく湧き上がる霞の生命力と、それを見つめる作者の視線が固定されている様子が窺えます。「龍田山」は、生駒山地の最南端、信貴山の南に連なる大和川北岸の山々。「恋ひむかも」の「かも」は、詠嘆。作者が、大和の都から難波津へ向かい、西へ向けての船旅に出ようとして龍田山を越えている時の歌です。大和川に沿った龍田道を通って難波へ出るときに、龍田山は大和との別れをする山だったのです。峠あたりまで送ってきた人との挨拶の歌だったかもしれません。

 
1182の「海人小舟」は、漁師が乗っている小舟。「帆かも張れる」の「かも」は疑問で、帆を張っているのだろうか。「鞆」は、現在の広島県福山市鞆町で、かつて瀬戸内海航路の要港で、潮待ちの港として栄えました。港の形が巴(ともえ)形をしていることから巴津(ともえつ)とも呼ばれたようです。当時の山陽道は海岸から十数キロ離れたところを通っていましたから、これらの歌は海上から見た景を詠んだとみられます。「浦廻は、入江の湾曲した所。「見ゆ」は、見える。国土を褒め称える国見歌には「・・・見れば~見ゆ」という表現様式があり、この歌も完全ではないものの、その様式を踏まえています。海人の舟が出漁し賑わうさまは、豊穣な海の証であり、これは見立てによってこの地を称えた土地褒めの歌です。

 
1183の「ま幸くて」の「ま」は接頭語で、無事であって、の意。「丈夫の手に巻き持てる」の2句は、「鞆」が、弓を射る際に弦が腕に当たるのを防ぐために、左手首に巻く皮の防具であることから「鞆(の浦)」を導く序詞。丈夫が身につける象徴的なアイテムを引き合いに出すことで、歌全体に凛とした、力強い響きを与えています。作者は、鞆の浦の美しい入り江を眺めながら、その名に宿る「守護」の力を借りて自分自身を鼓舞したのでしょう。『万葉集』らしい、言葉の響き(名)と現実の場所(地)が深く結びついた作です。

 
1184の「鳥じもの」の「鳥」は、水鳥。「じもの」は、まるで~のように、の意の接尾語。水鳥に自分を譬えることで、波間に漂う頼りなさ、拠り所のなさを強調しています。「沖つ波」は、沖の方の波。「騒く」は、波が荒れ狂う音。「あまた悲しも」の「あまた」は、非常に、甚だしく。「悲しも」の「も」は、詠嘆。地名はありませんが、備後の国から船出しての歌と見られます。当時の未発達な造船技術では風波を凌ぎ難かったため、聞こえる波音に対して大きな不安を抱いています。
 


瀬戸内海航路

 古来、日本列島の交通体系は、瀬戸内海の航路を中心に組み立てられてきました。古代における瀬戸内海は、北部九州(大宰府)と畿内の2つの拠点を結ぶ主要な航路としてその役割を果たしており、加えて、大陸文化の流入においても、朝鮮や中国への使節(遣唐使・遣新羅使)が畿内の難波津から目的地に向かう際に利用する重要な交通路となっていました。

 そのため、大和朝廷は瀬戸内海沿岸の港の整備に力を入れ、遣唐使や遣新羅使の航路である難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、鞆の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館へと続く諸港が開かれました。

 なお、万葉の時代の瀬戸内海航路には、山陽の南岸沿いのコースと四国の北岸沿いのコースがありましたが、時代が下るにつれて、後者のコースは利用されなくなりました。
 

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古典に親しむ

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