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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1188~1193

訓読

1188
山越えて遠津(とほつ)の浜の岩つつじ我(わ)が来るまでにふふみてあり待て
1189
大海(おほうみ)に嵐(あらし)な吹きそしなが鳥(どり)猪名(ゐな)の港(みなと)に舟(ふね)泊(は)つるまで
1190
舟(ふね)泊(は)ててかし振り立てて廬(いほ)りせむ名児江(なごえ)の浜辺(はまへ)過ぎかてぬかも
1191
妹(いも)が門(かど)出入(いでいり)の川の瀬を早(はや)み我(あ)が馬(うま)つまづく家(いへ)思ふらしも
1192
白栲(しろたへ)ににほふ真土(まつち)の山川(やまがは)にわが馬なづむ家(いへ)恋ふらしも
1193
背(せ)の山に直(ただ)に向(むか)へる妹(いも)の山(やま)事(こと)許せやも打橋(うちはし)渡す

意味

〈1188〉
 山を越えて遠く行く遠津の浜の岩つつじよ、私が再びここに帰って来るまで、つぼみのまま待っていてくれ。
〈1189〉
 大海原に、どうか嵐よ吹かないでおくれ。猪名の港に、この舟がたどり着いて無事に停泊する、その時までは。
〈1190〉
 舟を泊め、かしを振り立てて繋ぎ、ここで旅の宿りをしよう。この名児江の浜辺をこのまま通り過ぎるはできないことだ。
〈1191〉
 妻が門を出入りするという、その入(いり)の川の瀬が早くて、私の乗っている馬がつまずいた。家の妻が私のことを思っているのだろう。
〈1192〉
 白く映える真土の山川の険しさに、私の馬は行き悩んでいる、家の妻が私を恋しがっているらしい。
〈1193〉
 背の山に向かい立つ妹の山は、背の山の求婚を承諾したのだろうか。隔てる川に打橋が渡してある。

鑑賞

 作者未詳の「覊旅(たび)にして作れる」歌6首。1188の「山越えて」は、山を越えて遠くの意で「遠」にかかる枕詞。「遠津の浜」は所在未詳で、単に遠い港・浜を指すという説もあります。険しい山道を越えた先に、ようやく見えてくる美しい浜辺の開放感を表現しています。「岩つつじ」は、海岸や川沿いの岩場に自生するツツジ。「ふふみてあり待て」の「ふふみて」は、つぼみのままで。「あり待て」は、存在して待っていよという命令で、花に対して呼びかける擬人化の手法がとられています。公務を帯びて旅する京の官人が、帰路で再び遠津の浜を通る時のことを思って歌っています。

 
1189の「な吹きそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「しなが鳥」はカイツブリの古名で、雌雄相伴うことから「率(い)る」と同音の「猪名」にかかる枕詞。「猪名の港」は、尼崎市の長洲あたり、猪名川の河口。当時の航海において、ここは一時の安息を得られる大きな中継地点でした。海上にあって、港に着くまでの平穏を祈っている歌であり、せめて、あの港に入るまでのあと少しの間だけは静かでいてくれ、という、時間との戦いが伝わりまます。

 
1190の「舟泊てて」は、舟を泊まらせて。「かし」は、船を繋ぎとめる棒杭で、あらかじめ船に載せてあるもの。「廬り」は、旅先での宿り。仮小屋を建てて泊まること。「名児江の浜」は、住吉の名児の入江(1153・1155)の浜か。「過ぎかてぬかも」の「かてぬ」は不能の意で、通り過ぎはできないことよ。前歌の結句「舟泊つるまで」を受けており、前歌が摂津の西方の猪名の港であるのに対し、この歌は南方の名児江であり、だんだんと大和に近づいていることが窺えます。また、これまでの命がけの航海という緊張の糸が、美しい風景を前にしてふっと解けた瞬間を鮮やかに切り取っています。

 
1191からは、前歌までの海路の旅の歌に対し、陸路の旅の歌になります。「妹が門出」は、出入りする意で「入」に続け、地名の「入の川」を導く序詞とされます。「入の川」は、所在未詳。ただ、川の名が「出入の川」か「入の川」か不明で、その序詞も「妹が門」か「妹が門出」までか、明らかではありません。「瀬を早み」は「~を~み」のミ語法で、瀬が早いので。「家思ふらしも」の「らし」は、確かな根拠に基づく推量。「も」は、詠嘆。家の妻が旅先の夫を案じると、その心が通って、夫の乗馬が躓き、あるいは行き悩むということは、当時の信仰であったとみえ、それに触れている歌が少なくありません。

 
1192の「白妙ににほふ」は、まっ白に輝くの意で、地名の「真土」を褒める譬喩式序詞。「真土の山川」は、真土山の中を流れる川で、今の落合川。真土山は、大和と紀伊の国境にある山で、今も奈良県と和歌山県の県境になっています。「馬なづむ」は、馬が急流によって渡り悩んでいること。「家恋ふらしも」の「らし」は、確かな根拠に基づく推量。「も」は、詠嘆。前歌と同様の信仰によって歌っています。大和から旅立つ都人にとって、北が奈良山を越えて渡る泉川(木津川)が、家郷との別れを示す場所だったように、南は真土山を越えて渡る落合川がそれだったようです。

 
1193の「背の山」は、和歌山県伊都郡かつらぎ町の西端にあり、大化の改新の詔によって畿内国の南限と定められた標高168mの山。「妹の山」は、古くは名のない山で、紀の川の南岸の「背山」に向き合う山として名付けられたといいます。この「背の山」または「妹の山」は『万葉集』に15首も詠まれており、当時の旅人は、紀伊の国の睦まじい2つの山を見て郷愁に駆られたようです。「直に向へる」は、直接に向かい合っている。「事許す」は、求婚を承諾する意。「打橋」は、板を架け渡しただけの仮の橋、あるいは2つの山の中間の、紀の川の川中島である船岡山のことと解するものもあります。
 


畿 内

 『日本書紀』大化2年(646年)正月の条の「改新の詔」に、畿内の範囲が示され、時代によって多少の変遷はあるものの、8世紀半ば頃までは、大和、山背、河内、摂津、和泉の諸国の総称で、東西約100km、南北約85kmに及びます。畿内という概念は、中国の『周礼』によるもので、儒教的な礼の秩序に基づく理念的な世界観です。中国では、「畿」とは、専制君主のいる帝都を意味し、その王城から四方500里(約200km)以内の直轄地を「畿内」と呼んでいました。 

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古典に親しむ

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