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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1196~1200

訓読

1196
つともがと乞(こ)はば取らせむ貝(かひ)拾(ひり)ふ我(わ)れを濡(ぬ)らすな沖つ白波(しらなみ)
1197
手に取るがからに忘ると海人(あま)の言ひし恋(こひ)忘れ貝(がひ)言(こと)にしありけり
1198
あさりすと礒(いそ)に棲(す)む鶴(たづ)明けされば浜風(はまかぜ)寒(さむ)み己妻(おのづま)呼ぶも
1199
藻刈(もか)り舟(ぶね)沖漕(こ)ぎ来(く)らし妹(いも)が島(しま)形見(かたみ)の浦に鶴(たづ)翔(かけ)る見ゆ
1200
我(わ)が舟は沖ゆな離(さか)り迎(むか)へ舟(ぶね)片待ちがてり浦ゆ漕(こ)ぎ逢はむ

意味

〈1196〉
 お土産はと乞われたら渡そうと思って貝を拾っている。その私を濡らさないでおくれ、沖から寄せてくる白波よ。
〈1197〉
 手に取っただけで物思いを忘れられると海人の言った恋忘れ貝は、言葉だけにすぎなかった。
〈1198〉
 餌を求めて磯に棲み着いている鶴も、明け方になると浜風が寒いのか、自分の妻を呼んで鳴いている。
〈1199〉
 藻を刈り取る海人の舟が沖の方から漕いで来るらしい。妹が島の形見の浦に鶴が飛び交っているのが見える。
〈1200〉
 我が舟よ、沖の方に離れないでおくれ。迎えの舟をひたすら待ちながら、浦を漕いで行き逢おう。

鑑賞

 作者未詳の「覊旅(たび)にして作れる」歌5首。1196の「つともがと」の「つと」はお土産、「もが」は願望の終助詞で、お土産が欲しいなと、の意。「乞はば」は、乞うたならば。「取らせむ」は、渡そうと思う。「沖つ白波」は、沖の方の白波。海岸にある美しい小石や貝が家に残る妻への土産となったのは、それらに海の霊威が宿るものと信じられていたためとされ、また、旅先で妻のために石や貝を拾うというのは、当時の官人にとって理想的な楽しさだったようです。待つ人への深い愛情が窺える歌です。

 
1197の「手に取るがからに」の「からに」は、ただ~するだけで、~するとすぐに、の意の接続助詞。「海人の言ひし」は、海辺の物知りである漁師が言っていた、という伝聞。「恋忘れ貝」は、恋の苦しさを忘れられることができるという、二枚貝の貝殻の片方、または一枚貝。「言にしあり」は、言葉でいうだけで実がない意。実際に恋を忘れさせてくれる力のない、名前だけの貝だったということ。「けり」は、強い詠嘆。失恋や片思いの苦しみから逃れたいと願う切実な心境を、伝説への期待と現実の落胆の対比で鮮やかに描き出しています。

 
1198の「あさりすと」のあ「あさり」は、食料(餌)を捜し求める意の動詞アサルの名詞形。「すと」は、するとて。「明けされば」は、夜の明け方になると。「浜風寒み」は、浜風が寒いので。「己妻」は原文「自妻」で、熟語として用例が見られるもの。「呼ぶも」の「も」は詠嘆で、呼んでいるなあ。「磯」「明け方」「浜風」という言葉が並ぶことで、読者は肌を刺すような冷気を感じます。万葉人にとって、寒さは物理的な辛さであると同時に、独り身の寂しさを強調する舞台装置でもありました。

 
1199の「藻刈り舟」は、海人が沖の海藻を刈り取る舟。「妹が島」は、和歌山市加太町の沖にある今の友ヶ島の古名かといいます。「形見の浦」は、妹が島が友ヶ島だとすると、加太の瀬戸を挟んだ対岸の入江。2つは別の地ではあるものの、やや遠く離れて見渡して一続きのものとして言っているようです。また、妹とそれに関係する形見ということを意識しているようでもあります。「鶴翔る見ゆ」は、浜にいた鶴の群れが、舟の近づくのに驚いて飛び立ったらしく、それが見えるという意。「形見の浦」が、上記の地(和歌山市の西北部)だとすると、そこは大和から紀ノ川の北岸に沿って河口を出て、さらに和泉山脈の最西端となる突端の田倉崎を北に廻った所です。北方に大阪湾を望み、西方の友ヶ島の彼方に、紀淡海峡を隔てて淡路島が浮かびます。交通路としても、島伝いに淡路・四国に渡る南海道の要衝でもありました。

 ところで、「鶴」が詠まれている歌は『万葉集』全体では47首あり、詠まれた季節も、遣新羅使が真夏の瀬戸内海を航行した折の歌が3首あるなど、こんにちのような越冬期だけの棲息ではなかったことが分かります。当時は各地の河川の出口のいたるところに鶴の好む湿原が広がっていたらしく、『万葉集』の鶴が全国に及んでいるのはそのためだったと見られています。

 
1200の「沖ゆな離り」の「ゆ」は、動作の起点・経由点を示す格助詞。「な」は、懇願的な禁止。沖の方へは離れて行くな、の意。「片待ちがてり」の「片待ち」は、ひたすら待ち。「がてり」は、しながら、がてら。「浦ゆ」は、浦を通過して、で、上の「沖ゆ」に対させたもの。地名はありませんが、「浦」は前歌の「形見の浦」でしょうか。「我が舟」は、前歌の「藻刈り舟」に対比していて、藻刈り舟は沖を漕いでいるけれども、我が舟は・・・と言っているようでもあります。

 いずれの歌も、地名のない、都からの旅人の海辺での作ですが、ここの歌の前にある
藤原卿の作(1194・1195)に付随した歌群として資料を同じくしていたとすれば、5首とも紀伊の国の海辺で詠まれたものになります。そしてこの歌群はさらに続きます。
 


『万葉集』の歌番号

 『万葉集』の歌に歌番号が付されたのは、明治34~36年にかけて『国歌大観歌集部』(正編)が松下大三郎・渡辺文雄によって編纂されてからです。「正編」には、万葉集・新葉和歌集・二十一代集・歴史歌集・日記草紙歌集・物語歌集を収め、集ごとに歌に番号が付されました。これによって、国文学者らは、いずれの国書にでている和歌なのかをたちどころに知ることができるようになりました。『万葉集』の歌には、1から4516までの番号が付されています。ただ、当時のテキストとなった底本は流布本であり、またそれまでの研究が不十分だったために、一首の長歌を二分して二つの番号を付す誤りや、「或本歌」の取り扱いなどの問題もあり、4516という数字が『万葉集』の歌の正確な総数というわけではありません。しかし、ただ番号を付すというそれだけのことで、その後の国文学研究は大きく進展したのです。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。