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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1211~1214

訓読

1211
妹(いも)があたり今ぞ我(わ)が行く目のみだに我(わ)れに見えこそ言(こと)問はずとも
1212
足代(あて)過ぎて糸鹿(いとか)の山の桜花(さくらばな)散らずもあらなむ帰り来るまで
1213
名草山(なぐさやま)言(こと)にしありけり我(あ)が恋ふる千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰(なぐさ)めなくに
1214
安太(あだ)へ行く小為手(をすて)の山の真木(まき)の葉も久しく見ねば蘿(こけ)生(む)しにけり

意味

〈1211〉
 妹(の山)の近くを今まさに過ぎて行こうとしている。せめて顔だけでも見せてほしい、言葉は交わさなくとも。
〈1212〉
 足代(あて)を過ぎてさしかかった糸鹿(いとか)の山の桜花よ、帰って来るまでどうか散らずにいておくれ。
〈1213〉
 名草山はただ名前だけの山だったよ。私の恋心の、幾重にも積もったその一つでさえも慰めてくれないのだから。
〈1214〉
 安太に通じる小為手の山の立派な杉や檜も、久しく見ないうちに古木となって苔生していた。

鑑賞

 作者未詳の「覊旅(たび)にして作れる」歌5首。1211の「妹があたり」は、本来は「恋人の住む家の近くを」の意ですが、ここは背の山と並ぶ「妹の山あたり」の意に転用しています。「今ぞ我が往く」は、強調の「ぞ」+連体形の「往く」による係り結び。「今、まさにこの時なのだ」という時の一点への強い集中と強調を表しています。「目のみだに」は、せめて顔だけでも、せめて一目だけでも。「見えこそ」の「こそ」は、願望。「言問はずとも」は、物を言わなくても、言葉を交わさなくても。

 「背の山」と「妹の山」は、大和国から紀伊国へ向かう要路、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山で、紀の川を挟んで北岸に「背の山」、南岸に「妹の山」が並んでいます。川を堰き止めるような地形になっており、南海道を往来する人々の目標となる山でした。当時の行程では、飛鳥からここまで2日、奈良からは3日かかりましたから、ここを通る京の旅人の多くは、二つの山の名に、旅愁、妻恋しさを感じたようです。この地を詠んだ歌は『万葉集』中14首あります。

 
1212の「足代」は、有田市・有田郡の地。「糸鹿の山」は、有田市糸我町の南にある山。具体的な地名をテンポよく出すことで、旅が着実に進んでいる臨場感を生んでいます。「散らずもあらなむ」の「も」は強意の係助詞、「なむ」は、他に対する強い願望を表す終助詞。大和より逸早く咲く熊野路の峠の桜への感動と愛惜の思いをうたっています。山桜は葉と花とが同時に開きますが、今も、3月下旬ごろには、糸我峠の付近は、あちらこちらに山桜の開花が見られます。あるいは「桜花」は、その地の女性を譬えたものとも言われます。

 
1213の「名草山」は、和歌山市の紀三井寺がある山。紀ノ川の南岸に沿って東西に延びる龍門山系の西端に位置する標高229mの山で、山頂からは『万葉集』に詠まれた「和歌の浦」「玉津島山」「雑賀崎」が眺望できます。「言にしあり」は、名だけのことで実が伴わない。「けり」は、詠嘆。「千重の一重も」は、千分の一も。名草山の「なぐさ」める山とは名ばかりで、逆にますます恋の苦しみが増してくる、と言っていますが、実のところは、優しく穏やかな名草山の佇まいに心惹かれ、旅愁を慰められたらしく、歌の内容に反して、明るく軽やかな調子で詠まれています。

 
1214の「安太」は、1212の「足代」と同じ地か。「安太へ行く」は、安太の方へ行く途中にある、の意。「小為手の山」は、和歌浦方面から有田川へ出るまでの間にある山とされますが、未詳。「真木の葉も」の「真木」は、杉・檜などの立派な木。「も」には、真木だけでなく、その地の人も、という暗示があるようです。「蘿」は、ここではサルオガセ。針葉樹の古木の幹や枝に付着して糸状に伸びる地衣類の植物。時には数メートルも垂れ下がりますが、水分と光合成だけで生長し、他から栄養を奪うことはありません。

 このあたりの歌は、神亀元年(724年)10月の
聖武天皇の和歌の浦行幸に従駕した官人の歌と見られています。この時の行幸では、聖武天皇は13日間も滞在し、従駕した山部赤人は、和歌の浦の名歌を残しています(巻第6-917~919)。
 


和歌山県(紀伊国)について

 和歌山県は紀伊国だが、もとは木の国と熊野の国にわかれていた。大化以後両地は合して一国となり、北から伊都(いと)・那賀(なが)・海部(あま)・名草・安諦(あて)・日高・牟婁(むろ)の7郡がおかれた。熊野の牟婁はこんにち東西南北にわかれ、南・北牟婁郡だけは三重県にはいっている。

 万葉の故地は紀ノ川筋と、ほとんど沿海地にかぎられ、所出の地名は延べて130に近い。大和の隣国だけに万葉の時代に、『書紀』や『続紀』によれば、4回の行幸があった。斉明朝4年(658年)には紀の湯(白浜湯崎温泉)へ、持統朝4年(690年)もおそらく紀の湯へ、文武朝大宝元年(701年)には持統・文武うちつれて紀の湯へ、聖武朝神亀元年(724年)には玉津島へと行幸があり、紀の湯までの途上には多くの歌がのこされている。大和から国境のまつち山を越えて紀ノ川筋をくだり、陸路はおおむねのちの熊野街道筋によるものであった。もっとも中紀から日ノ岬付近までは静かな日には海路によったらしいものもある。田辺からさきのいわゆる大辺路(おおへち)筋のものはきわめてすくなく、あっても確実とはいえない。

 大和には海がないから大和の宮廷都人士には、隣国のこの明るい南海には深いあこがれがいだかれていた。行幸の目的には遊覧・湯治に加えて政治的配慮があったろうけれど、のこされた歌詠は、それぞれの時代の人たちが、南にゆくほど南国的躍動的に展開してゆく景観につれて、讃嘆し、同化し、陶酔し、おどる心情の種々相をくりひろげていて、さながら一連の海洋交響楽をかなで、異色ある万葉紀伊風土圏をつくりあげているようである。

~『万葉の旅・中』犬養孝著/平凡社から引用

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。