| 訓読 |
1242
あしひきの山行き暮(ぐ)らし宿(やど)借らば妹(いも)立ち待ちて宿貸さむかも
1243
見わたせば近き里廻(さとみ)をた廻(もとほ)り今ぞ我(わ)が来る領巾(ひれ)振りし野に
1244
娘子(をとめ)らが放(はな)りの髪を由布(ゆふ)の山(やま)雲なたなびき家のあたり見む
1245
志賀(しか)の海人(あま)の釣舟(つりぶね)の綱(つな)堪(あ)へなくに心に思ひて出(い)でて来にけり
1246
志賀の海人の塩焼く煙(けぶり)風をいたみ立ちは上らず山にたなびく
| 意味 |
〈1242〉
山路を一日歩き暮らし、宿を借りようとしたら、若く美しい娘が門に立って待っていて、宿を貸してくれるだろうか。
〈1243〉
見渡せば間近に見える里のあたりなのに、ぐるりと回って今ようやく旅を終えてたどり着いた。出かける時に妻が領巾を振って別れを惜しんだ野に。
〈1244〉
乙女たちが解き放った髪を結うという、その名の由布の山に、雲よたなびかないでくれ。我が家のあたりを見ていたいから。
〈1245〉
志賀の漁師の釣り舟を引き留める綱が荒波に耐えられないほどに、別れに堪え難く思いながら家を出てきてしまった。
〈1246〉
志賀の漁師が藻塩を焼く煙が、風が激しく吹くので、上にのぼらず山の方へたなびいている。
| 鑑賞 |
作者未詳の「覊旅(たび)にして作れる」歌5首。1242の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山行き暮らし」は、山道を歩き続けて日が暮れてしまい。「宿借らば」は、もし、どこかで宿を借りたならという仮定。「妹」は、妻や恋人の意ですが、ここでは宿の未知の女。「立ち待ちて」は、門に立って待っていて、の意。「宿貸さむかも」の「かも」は、疑問。作者が心中に空想している歌ですが、山中に仙女が住んでいて、人界の男と結婚するという当時の神仙思想が影響しているとも言われます。
1243の「里廻を」は、里のあたりなのに。「た廻り」の「た」は接頭語、「廻り」は、回り道をして、行ったり来たりして。「今ぞ」の「ぞ」は、強調の係助詞。「領巾」は、女性が襟から肩にかけた細長い白布。原文「礼巾」とあるのは、それが古くは呪術儀礼にも用いられたので、この字を当てているとされます。遠い旅路からようやく帰って来て、妻との別れをした野に近づいた時の感慨を歌ったもので、本来は人目を避けて隠り妻を訪れる時の歌だったかもしれません。
1244の「放りの髪」は、15、6歳ごろまでの童女の、髪を垂らした髪型。成人するとそれを結い上げることから、上2句は、同音の掛けことばで「由布」を導く序詞。「由布の山」は、大分県の別府温泉の西方にある由布岳(標高1,583m)。「雲なたなびき」の「な」は、禁止。豊後の国から東へ旅立つ人の、家郷のシンボルとしての由布岳見納めようとする歌です。また序詞からは、放りの髪を彷彿させる若妻が里にあることが察せられます。
1245の「志賀」は、博多湾に浮かぶ志賀島。現在は砂州で陸続きになっています。上2句は、釣り舟の綱が玄界灘の荒波に切れないでいることができないように、の意で「堪へなくに」を導く譬喩式序詞。「堪へなく」は「堪へず」のク語法で名詞形。原文「不堪」で、アヘカテニと訓むものもあります。窪田空穂は、「京の官人の志賀の地へ来ての歌と取れる。それだと『出でて来にけり』は京のわが家で、故郷を思った心である」と言っています。
1246の「風をいたみ」は「~を~み」のミ語法で、風がひどいので。「塩焼く煙」は、塩をとるために火を燃やす煙。土器や土釜に入れた海水を煮沸して塩を取り出すため、長時間にわたって薪を燃やし続ける必要がありました。志賀は、製塩で有名だったといいます。なお、この歌の左注に「右の件の歌は、古集の中に出づ」とあります。古集がどういう集か不明で、他に「古歌集」とあるのと同一かどうかも不明です。また「右の件の歌」がどの範囲を指すかについても明らかではありません。

旅の歌に地名が詠まれるわけ
『誤読された万葉集』(古橋信孝:著)から抜粋引用~
旅の歌にはいくつかの型があって、別れてきた妻や恋人を想う型、土地の風物を詠む型がほとんどだが、いずれにしても地名を詠み込んでいるものが多い。たとえば、次の人麻呂の歌もそうである。
淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす(巻第3-251)
地名が詠み込まれていれば、場所が限定される。その土地を知っている読者にとっては、歌から浮かぶ像がいっそう鮮明になるといえる。しかし、大部分の読者はそんな場所を知らないはずだ。にもかかわらず、歌に地名を詠み込んでいるわけで、なんらかの効果をねらっていると考えられる。
この歌は、「野島の崎の浜風に」と「紐吹きかへす」とのつながりが文法的におかしい。「吹きかへす」の主語は、普通に考えれば、「浜風」のはずである。「浜風は」となっていれば問題はない。しかし「浜風に」となっている。となれば、「吹きかえす」の主語を考えなければならなくなる。「何か」が紐を吹き返すのである。その「何か」とは何か。
旅とは不安なものである。この不安感を、古代の人々は霊的なものに祈ることで解消しようとした。峠などの境界的な場所で幣(ぬさ)を捧げたように、祈る対象は土地の神々である。と考えてくると、「何か」は土地の神ではないかと思い至る。野島の崎の神が浜風によって紐を吹き返したのではないか。
紐は旅立つ前に恋人か妻が無事を祈って結んでくれたものである。紐には霊的な力がある。自分の魂を守ろうとしたと考えればいい。魂がかんたんに離れないように強く結んでくれたと考えてもいい。驚くことを「たまげる」というが、たまげるは「魂消る」で、魂は特別なとき、離れてしまうことがあった。だからこそ恋人か妻が結んでくれたのである。したがってこの歌は、その紐が土地の神に感応した状態が詠まれていることになる。
旅の歌に地名を詠みこむのは、本来、その土地の神を詠むことなのである。なぜかといえば、その土地を無事に通してもらうためだ。そのため、旅人は神に祈る。しかし、直接に神に祈っている歌は少ない。考えてみれば当然で、祈りはそのための呪文や祝詞(のりと)など、特別な言い方がある。とすれば、地名を詠みこむことで神を称えたのではないか。歌は文学、つまり言葉が美へ向かうものだから、地名を歌に詠むことは土地の神々を美として称えることになるのである。
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