| 訓読 |
1255
月草(つきくさ)に衣(ころも)ぞ染(そ)むる君がため斑(まだら)の衣(ころも)摺(す)らむと思ひて
1256
春霞(はるかすみ)井(ゐ)の上ゆ直(ただ)に道はあれど君に逢はむとた廻(もとほ)り来(く)も
1257
道の辺(へ)の草深百合(くさぶかゆり)の花笑(はなゑ)みに笑みしがからに妻と言ふべしや
1258
黙(もだ)あらじと言(こと)のなぐさに言ふことを聞き知れらくは悪(あ)しくはありけり
1259
佐伯山(さへきやま)卯(う)の花持ちし愛(かな)しきが手をし取りてば花は散るとも
| 意味 |
〈1255〉
露草で衣を摺り染めにしている。あの方のため。斑模様の美しい着物に仕立てようと思って。
〈1256〉
水汲み場から家にまっすぐ道は通じていますが、あなたにお逢いしたいと思って回り道をしてやって来ました。
〈1257〉
道のほとりの繁みに咲く百合の花のように、ちょっと微笑みかけたからといって、妻とは決めてかからないでください。
〈1258〉
黙っていてはまずいだろうと口先だけの気休めに言う言葉を、そうと知りつつ聞いているのは気持ちの悪いものです。
〈1259〉
佐伯山で卯の花を手にしていた可愛いあの子の手を握ることができたら、花は散ってもかまわない。
| 鑑賞 |
「古歌集に出づ」とある「時に臨む」歌、すなわち、その時々に臨んで思いを述べた歌。1255の「月草」は、ツユクサ(露草)の古名。日本各地の道ばたや畑地などのやや湿った所に群生する一年草で、夏に藍色の花が咲き、色が美しく、衣に摺る染料にしました。「斑の衣 」は、原文「綵色衣」で訓みが定まらず、「いろどりごろも」と詠むものもあります。窪田空穂は、「上代は身分のある女も、夫の衣はすべて自身で織り、仕立て、また染めもしたので、露草の季節に美しい藍色に摺るということは、妻としての喜びだったのである。『月草に衣ぞ染むる』と力を籠めて言い出しているのは、その喜びの表現である」と述べています。女が、そこで何をしているのかと、問いかけられて答えているような歌です。
1256の「春霞」は、春霞がかって「いる(動かない)」の意で、同音の「井(ゐ)」にかかる枕詞。「井」は、泉や流水から水を汲みとるところ。「井の上ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。~から、~を通って。「直に」は、まっすぐに。「た廻り」の「た」は接頭語、「廻り」は、回り道をして、迂回して。窪田空穂は、「上代は飲用水を汲むのは娘の役と定まっていたので、この作者もそれをしているのである。歌は、水を汲んで家へ帰る途中の心で、井から家へまっすぐに道は続いているのであるが、その娘は同じ部落の中に言い交わしている男があるので、ひょっと顔が見られようかと頼んで、わざと男の家のあるほうの道へと、まわり道をして行くというのである。外出の自由でなかった若い女としてはきわめて自然な、可憐な心である」と解説しています。
1257の「道の辺」は、道のほとり、道ばた。「草深百合」は、草丈の長い繁みで咲く百合。万葉の歌に出てくる百合は、こんにちのヤマユリです。その花は目立ちますが、草の繁みに生えているので、たやすく摘み取ることはできません。ここは、人目に触れにくい純真さや、奥ゆかしさを象徴しています。「花笑みに笑みし」は、原文「花咲尓咲之」で、花が咲くことを笑みの比喩にしているもの。花がパッと開くような、明るく魅力的な笑顔」を指しています。「からに」は、ちょっと~だけで。「言ふべしや」の「や」は反語で、言ってよいだろうか、言うべきではない。
男の求婚にはっきり承諾したわけでもないのに、ちょっと微笑みかけただけで自分に気があると勘違いし、なれなれしく振舞う男に、女が贈った歌とされます。ただ、拒絶というよりは、「もっとちゃんとした手順を踏んでよ」という恋の駆け引きに近い、明るいエネルギーを感じさせないではありません。一方、「笑みしがからに」ではなく「笑まししからに」と訓んで、「相手の女が道の辺の草深百合の花が開いたように、にっこりとお笑いになっただけで、その人を妻と呼べようか」と、反語、不安疑問を意味する男の歌と解する説もあります。
1258の「黙あらじと」は、黙っていてはまずいだろうと思って。「黙」は、だまっていること。「言のなぐさ」は、口先だけの気休め。「聞き知れらくは」は、聞き知っていることは。「知られく」は「知れり」のク語法で名詞形。「悪しくはありけり」は、よい気持ちのしないことであった。ただし、「悪しく」の原文「少可」の訓はさまざまあり、ツラク、カラクなどと訓む説があります。男の口先だけの気休めの言葉に気づいた時の、女の歌ですが、男の歌と見るものもあります。
1259の「佐伯山」は所在未詳ながら、安芸(広島市佐伯区廿日市市あたり)、あるいは摂津(大阪府池田市)の山かと言われます。「卯の花」は、ウツギの花。初夏に真っ白な小花を群生させます。『万葉集』では「白さ」の象徴であり、初夏の訪れを感じさせる花です。「持てる」は、持っている。「愛しきが手」の「が」は所有格の助詞で、愛しい人の手。「取りてば」の「てば」は、仮定条件の接続助詞。「散るとも」は、散ろうとも、で、かまわぬの余意を含んでいます。初夏のころ、卯の花をかざす歌垣で女を得ようとする男の歌とされます。

ゐ(井)
ヰ(井)とは、人が水を得るための場、あるいは施設を言う。水は生活用水を対象とするが、特別な場合には宗教的行事にも用いられた。「井」は井桁をもつ掘り抜き井戸を想像しがちだが、川や池に設けられた水場、水が湧き出る場所などもすべて「井」と呼ばれた。
古代の人々の観念世界においては、水がほとばしり出る場、水の激(たぎ)ち流れる場は、聖なる場とされた。「井」の水も絶えず溢れ出ているから、そうした「井」は聖所とされ、その水は聖水とされた。
~『万葉語誌』から引用
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『万葉集』の字余り句
和歌(短歌)は、5・7・5・7・7の31文字を定型としますが、5文字が6文字に、7文字が8文字に超過する句がある場合は「字余り」と呼ばれます。近代以降の和歌にも字余りを詠みこむ例がありますが、それらの字余りに特段の法則があるわけではありません。しかし、『万葉集』など古代の字余りには一定の法則が認められ、それを発見したのは、江戸時代後期の国学者、本居宣長です。すなわち、句中に「あ・い・う・え・お」のいずれかの単独母音を含むと字余りをきたすというものです。1257の歌でいえば、結句の途中に母音イを含む8文字の字余りになっています。この場合、イが準不足音句になるので、7音節と見るのです。
もっとも、句中に母音音句を含めば、すべてが字余りになるかというとそうではなく、非字余りの句も存在します。また、従来、母音音句を含まず字余りで訓まれてきたものを、諸氏の本文批判や訓法によって5・7文字に改訓されてきた中にあって、母音音句を含まずに字余りと認められるものも僅かながら存在しています。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |