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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1264~1267

訓読

1264
西の市(いち)にただ独り出でて目並(めなら)べず買ひてし絹の商(あき)じこりかも
1265
今年行く新島守(にひしまもり)が麻衣(あさごろも)肩のまよひは誰(た)れか取り見む
1266
大船(おほふね)を荒海(あるみ)に漕(こ)ぎ出(で)や船たけ我(わ)が見し児(こ)らが目見(まみ)はしるしも
1267
ももしきの大宮人(おほみやひと)の踏みし跡(あと)ところ 沖つ波(なみ)来(き)寄らずありせば失(う)せずあらましを

意味

〈1264〉
 西の市にたった一人で出かけて、見比べもせずに自分だけで見て買ってしまった絹は、買い損ないの大誤算だったよ。
〈1265〉
 今年送られていく新しい防人の麻の衣の肩のほつれは、いったい誰が繕ってやるのだろうか。
〈1266〉
 大船を荒
海に漕ぎ出して一心に漕いでいるけれど、その間にも、私が見たあの子のまなざしが鮮やかに浮かんでくる。
〈1267〉
 ここはかつて大宮人たちが踏んだ跡がある所よ。沖の波が寄せて来なかったならば、その跡が消え失せることはなかったのに。

鑑賞

 「古歌集に出づ」とあり、1264~1266は「時に臨む」すなわち、その時々に臨んで思いを述べた歌。1264の「西の市」は、平城京の西の市。「目並べず」は、目を並べず、よく見て吟味せず。「商じこり」は商売上の失敗、買いそこないの意。「安物買いの銭失い」だったのか、よく確かめもせずに買い物をしたことを嘆いている歌ですが、買った「絹」は女の譬喩であり、周りの意見をよく聞かずに結婚し、やっぱり失敗だったと嘆いている男の後悔の歌だともいわれます。平城京には、「西の市」「東の市」の物品売買のための市があり、山の民、海の民、里の民が集う「市」で、恋が芽生えることも多かったようです。つまり、「市」はナンパの名所でもあり、「歌垣」とよばれる集団見合いのような行事も行われていました。なお、この歌を、クズ男と結婚して後悔する女の歌との見方もあるようです。

 この平城京の西の市・東の市は、自由市場ではなく、政府が管理する公設市場であり、左右京職の下にいる東西の市司(いちのつかさ)が、物品の価格や品質などについてこまかく統制を加えていました。毎月15日以前は東の市が開き、その後は西の市が開き、まず政府側の取引が先に行われ、その売買が終わった後で、一般の人々が取引が行われました。扱われる品は、米穀・野菜・果物・海藻・魚介類、調味料・食器・布団・衣類などの日用品から、瑠璃玉や白檀などの貴重品まで種々様々でした。養老の関市令によると、市は正午に集まり、日没前には解散するとされていました。

 
1265の「島守」は「防人」と同じ。「今年行く新島守」とあるのは、3年の任期が満了して交替する今年に、新しく徴発されて筑紫に派遣される防人のこと。交替時期の年代は不明。「肩のまよひ」は、衣の肩のあたりの糸のほつれ。「誰か取り見む」は、誰が世話するのだろうか。ここは、ほつれを繕うこと。作者は、難波津から船に乗って出発する防人を見送っている官人などの第三者とみられ、3年間の苦役に従事しなくてはならない男を思いやっています。ただ、詩人の大岡信は、「他のことは言わず、肩のほつれのことを想いやって言っているこまやかさは、女でなければなるまい」と言っています。

 
1266の「大船」は、当時の国際交流や物流を担った大型の船。人生の大きな旅路や、困難な局面の象徴でもあります。「荒海(あるみ)」は、アラウミの縮まったもので、波の荒い海のこと。「や船たけ」の「や」は、いよいよ、「船たけ」は、船を漕ぎ煽る。「目見」は、目もと、まなざし。「目」と「見(みる)」が合わさった言葉で、相手が自分に向けた表情を指します。「しるしも」は、はっきりと目に浮かぶ。防人の船団が難波津から漕ぎ出して行く時に、船に乗っている防人が家郷の妻を偲んでいる歌でしょうか。

 
1267は「就所発思」、すなわち場所において思いを述べた歌で、旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)になっています。かつて行幸があった海辺の地の人が、到来した大宮人を尊敬し懐かしんで詠んだものです。紀伊国の和歌の浦あたりでしょうか。「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「踏みし跡ところ」は、大宮人たちが歩いた足跡、あるいはその場所。「来寄らずありせば」は、(沖の波が)打ち寄せてこなかったならば。原文「來不依有勢婆」で、「来寄らざりせば」「来よせずありせば」などと訓むものもあります。「失せずあらましを」は、消えずに残っていただろうになあ。「・・・ませば~まし」は、反実仮想(もし・・・だったら~だろうに)の語法。

 「大宮人」という言葉からは、華やかな装束をまとい、賑やかに浜辺を逍遥する貴族たちの姿が連想されます。それはかつての繁栄や、幸せな時代の象徴です。しかし、今目の前にあるのは、人影のない静かな浜辺だけです。砂浜に残された足跡は、どんなに高貴な人のものであっても、波が一度寄せれば消えてしまう脆いものです。作者は、その消えゆく足跡に、人間が成し遂げたことの儚さや、過ぎ去った時間の不可逆性を重ね合わせています。
 


防人について

 防人(さきもり)は、663年に百済救済のために出兵した白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、北九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、防人たちは、壱岐・対馬の2島と筑紫の要害の地に配備されました。おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされていました。

 防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然に行われたといいます。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、当時(天平勝宝7年)、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。

 ところで、このころ防人として徴兵されたのが、わずかな例外を除いて、ずっと東国の出身者だったのは何故でしょうか。いろいろな説があるようですが、一説にはこう言います。

 白村江の戦い以降、日本に逃れてきた百済の宮廷人や兵士は、それぞれ朝廷で文化や軍事の担い手として活躍しました。しかし、身分の低い人や兵士らは幾度かに分けて東国に移植されました。同族間の憎しみは、ときにより激しいものになるといいます。天智天皇は東国で新たな生活を始めた百済人を防人として、再びかり出し、日本を襲ってくるかもしれない彼らの祖国の同胞に立ち向かわせたというのです。何とも切ないお話です。。

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古典に親しむ

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