| 訓読 |
1304
天雲(あまくも)のたなびく山の隠(こも)りたる我(あ)が下心(したごころ)木(こ)の葉知るらむ
1305
見れど飽かぬ人国山(ひとくにやま)の木(こ)の葉をし我(わ)が心からなつかしみ思ふ
1306
この山の黄葉(もみち)が下の花を我(わ)れはつはつに見てなほ恋ひにけり
1307
この川ゆ舟は行くべくありといへど渡り瀬(ぜ)ごとに守(も)る人あり
| 意味 |
〈1304〉
天雲がたなびく山のように隠れた私の本心を、木の葉は知っているだろう。
〈1305〉
見飽きることのない人国山の木の葉を、心から親しく思うことだ。
〈1306〉
この山の黄葉の下にひっそり咲いている花をちらりと見ただけなのに、それでかえっていっそう恋しくなったことだ。
〈1307〉
この川を渡って舟は行くことができるというけれど、どの渡し場にも見張りの人がいる。
| 鑑賞 |
『柿本人麻呂歌集』から4首。1304~1305は「木に寄する」歌。1304の上2句は「隠る」を導く序詞。「下心」は、表には出さない、心の奥底にある本当の思い。「下」は「表(うへ)」の対義語で、人に見えないところを言います。現代の「下心」のような「企み」といったネガティブな意味はなく、純粋な内密の恋心を指します。「木の葉知るらむ」は、木々の葉は知っているだろうか。「らむ」は現在推量の助動詞で、「今ごろ、あの山の木の葉だけは私の心に共鳴してくれているだろうか」という、孤独な魂の震えが表現されています。「松は知るらむ」(巻第2-145)や「木の葉知りけむ」(巻第3-291)などとあるように、木の枝や葉は人の心を知る力を持つ人格的なものとされ、ここでも片恋の気持ちを木の葉に寄せて歌っています。窪田空穂は、「捉え難いものを鋭敏な感情をもって捉えて、素朴な形でいって、その心を暗示しているものである。目立たない作であるが、高手ということを思わせる」と評しています。
1305の「見れど飽かぬ」は、何度見ても飽きることがない意で、人国山を褒める言葉。「人国山」の所在は不明ながら、現在の奈良県天理市付近にある山を指すともいいます。木の葉をいうのに山の名をあげているのは異例ですが、人の国というので、他人のものという意味を持たせていると見られ、「人国山の木の葉」は、人妻あるいは他所の土地の女を譬えているとされます。「し」は、強意の副助詞で、山全体というより、風にそよぐ木の葉の一枚一枚にまで、作者の視線が注がれていることを強調しています。「なつかしみ思ふ」は、慕わしく思う。前の歌と連作とされ、ここも木の葉を女に譬えています。
1306は「花に寄する」歌。「黄葉が下」は、色鮮やかに紅葉した葉の陰。「花」は、具体的に何の花かは明示されていませんが、秋に咲く可憐な野花、あるいは比喩的に美しい女性を指します。「はつはつに」は、ちらりと、わずかに。この表現から、花は小さく目立たない花と見られ、身分の低く存在の薄い女に譬え、黄葉をその女の周囲にいる華やかで身分のある女に譬えているとも言われます。「なほ恋ひにけり」の「なほ」は、それでも、かえって。あるいは、秋山の宴席で、はかない出逢いをした女性へのつのる恋心を歌ったものかもしれません。
1307は「川に寄する」歌。「この川ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。ここでは、~を渡っての意。「舟」は、男自身の譬喩。「行くべくありといへど」の「べく」は可能で、行くことができるようになっていると言うけれど。「渡り瀬」は、舟で渡るのに都合のよい川瀬。「守る人」は、番をしている人。見守る人ではなく、ここでは監視する人・邪魔をする人という意味。川瀬を恋路に喩えており、女は自分に対して心を許しているものの、邪魔立てする者(親などの第三者)がいると言っています。一ヵ所だけならまだしも、「瀬ごとに」見張りがいるという表現に、どうしようもない閉塞感が漂います。

なつかし(懐かし)
目前にある対象に惹きつけられ、強く親和したくなる感情をいう語。慕わしい、離れがたいの意。対象を讃美する気持ちが込められる。動詞「懐(なつ)く」の形容詞化した語とされる。「懐く」は、馴れ親しむ、離れがたく親しませる、手なずけるなどの意を表す語。
ナツカシは万葉後期(平城京遷都以降)の歌だけに見られ、山・野・里など自然の景や、花や鳥など自然の景物が対象とされることが多い。それは、平城京という都市の成立によって、都市生活の対極にある自然や季節に対する人々の意識が高まったことと関係するらしい。都の人々にとって、自然に馴れ親しむ行為は風流のわざであった。ナツカシは、自然への愛着を表す風流な言葉として歌に用いられるようになったと考えられる。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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