| 訓読 |
1314
橡(つるはみ)の解(と)き洗ひ衣(きぬ)のあやしくもことに着欲(きほ)しきこの夕(ゆふへ)かも
1315
橘(たちばな)の島にし居(を)れば川遠みさらさず縫(ぬ)ひし我(あ)が下衣(したごろも)
1316
河内女(かふちめ)の手染めの糸を繰り返し片糸(かたいと)にあれど絶えむと思へや
1317
海(わた)の底(そこ)沈(しづ)く白玉(しらたま)風吹きて海は荒(あ)るとも採(と)らずはやまじ
| 意味 |
〈1314〉
黒い橡染めで、解いて洗った古い着物を、不思議にもいつもと違って着てみたくてならない、今夜であるよ。
〈1315〉
川から遠い橘の島に住んでいるので、十分に水にさらしもしないで縫った私の下着なのです。
〈1316〉
河内の国の女たちが手で染めて、何度も巻きなおした糸は、片糸だけれども、切れるようには決して思えない。
〈1317〉
海の底に沈んでいる真珠は、どんなに風が吹き海は荒れても、手に採らずにおくものか。
| 鑑賞 |
作者未詳の歌4首。1314・1315は「衣(きぬ)に寄する」歌。1314の「橡」はクヌギの木で、どんぐりを煮た汁で衣を染めた橡染めは、庶民の着物に使われました。「解き洗ひ衣」は、当時の洗濯方法で、着物を一度糸を解いてバラバラにして洗い、板に張って乾かす「洗い張り」をした衣。手間をかけて手入れをして再生された衣であり、ここは、昔なじんだことのある身分の低い女の譬え。「あやしくもことに」は、不思議なほどいつもと違って。「着欲し」は、共寝をしたい意の譬え。「この夕かも」は、この夕暮れ時であることよ。「かも」は深い詠嘆を表します。現在の恋が辛いからか、昔から関係していた身分の低い女をふと思い出し、懐かしんでいる歌とされます。
1315の「橘の島にし居れば」の「橘の島」は、草壁皇子の宮地であった奈良県明日香村島庄。「し」は、強意の副助詞。「川遠み」は、川が遠いので。「さらさず縫ひし」は、布を川の水にさらさないで衣に縫ってしまった。衣を仕立てる前にはその布を必ずさらすことになっていたのに、それをしなかったというもの。「我が下衣」は、内縁の結婚相手の譬え。十分に確かめずよく洗練されていない相手を選んでしまったことを言っています。男女どちらの歌とも解されますが、「縫ひし」とあるので、女の歌でしょうか。
1316は「糸に寄する」歌。「河内女」は、河内国、現在の大阪府東部の女。この地は古来帰化人が多く住み、早くから製糸・染色などの先進技術が発達していました。「繰り返し」は、染めた糸を糸巻き(くるべき)にかけて何度も巻き返し、の意。染色の作業工程の苦労が滲んでいます。「片糸」は、二本を縒り合せず一本だけで縒った弱い糸で、女の片思い、独り身に譬えています。「絶えむ思へや」の「絶ゆ」は、糸が切れる意で、仲が絶えることの譬喩。「や」は反語で、絶えようと思おうか、思わない。当時の生活に密着した「手仕事」のイメージから恋を連想した歌であり、今はまだ相手と結ばれていない「片糸」の状態ですが、それは未完成であるだけで決して結果ではありません。そして「繰り返し」という言葉には、一度で染まらなければ、二度、三度と作業工程を繰り返すのと同じように、「一度や二度振り向いてもらえなくても、私は諦めない」という、しなやかで力強い意志が感じられます。
1317は「玉に寄する」歌。「海の底沈く白玉」は、海の底に深く沈んでいる白玉(真珠)。深窓の美女に譬えており、手に入れることが困難な状況を暗示しています。「風吹きて海は荒るとも」は、たとえ風が吹いて海が荒れようとも。周囲の反対や、二人の仲を割こうとする世間の障害を譬えています。「採らずはやまじ」の「やまじ」は、やめるつもりはない。作歌の田辺聖子はこの歌が好きだとして、次のように評しています。「”採らずはやまじ”という強い表現が、むきだしで飾りけなくていい。民謡風な平明な歌で、ことさら深い味わいの名歌というのではないが、譬喩の真珠と、たくましい海人の男とのとり合せが好もしい。花束を持つのは女より男のほうが似合わしく、お茶の席で男がかしこまって座っているのも、女のそれより好ましい。すべて柔と剛、硬と軟のとり合せはイメージを触発してたのしい」

『万葉集』の写本について
『万葉集』の原本は現存しておらず、現代に伝わるのは平安時代以降に書写された写本によってです。これらの写本は、時代や地域によって内容や語句に違いが見られます。『万葉集』の写本は、大きく分けて以下の三系統に分類されます。
写本の異同を比較研究することで、『万葉集』の成立過程や、古代日本語の変遷、平安時代の文学観・書写文化などが明らかにされています。現在の学界では、これらの写本をもとに「校訂本」が作られ、研究者や一般読者が参照できる形になっています。
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |