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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1393~1397

訓読

1393
豊国(とよくに)の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごぢ)の真直(まなほ)にしあらば何か嘆かむ
1394
潮(しほ)満てば入りぬる礒の草なれや見らく少(すくな)く恋ふらくの多き
1395
沖つ波(なみ)寄する荒礒(ありそ)の名告藻(なのりそ)は心のうちに疾(やまひ)となれり
1396
紫(むらさき)の名高(なたか)の浦のなのりその礒に靡(なび)かむ時待つ我(わ)れを
1397
荒礒(ありそ)越す波は畏(かしこ)ししかすがに海の玉藻(たまも)の憎(にく)くはあらずて

意味

〈1393〉
 豊国の企救の浜辺の細かな砂地のように真っ直ぐ(平ら)な土地だったら、何を嘆くことがありましょうか。
〈1394〉
 潮が満ちてくると海の中に隠れてしまう磯の草であるからか、目に見ることは少なく、恋しさばかりがつのる。
〈1395〉
 沖から打ち寄せる荒磯のなのりそは、私の心の中の痛みになっている。
〈1396〉
 名高の浦のなのりそが、こちらの磯に靡き寄る時を待っている、この私は。
〈1397〉
 荒磯を越えてやってくる波は恐ろしい。そうはいうものの、海に揺れる美しい藻は憎く思えない。

鑑賞

 作者未詳歌5首。1393は「浦の砂に寄する」歌。「豊国」は、大分県と福岡県東部。「企救の浜辺」は、北九州市企救半島の海岸。「企救」の地名には、他人の噂を聞くという意味が掛けられているとも言います。ここの「真砂土」は、は相手の男の譬え。「真直にしあらば」は、まっすぐであったら、平らであったら。真面目で素直であったら、の意を寓しています。「何か嘆かむ」は、どうして嘆くことがあろうか(いや、嘆きはしない)。反語の表現です。前の男の歌に対して、同じ「真砂土」を詠みこんで歌い返した女の歌か。

 1394~1397は「藻に寄する」歌。
1394の「潮満てば」は、満潮になれば。「入りぬる礒」は、海中に隠れてしまう岩。「草」は藻で、恋する女を譬えています。「草なれや」の「や」は疑問の係助詞で、草なのであろうか。「見らく」は「見る」のク語法の名詞形で、恋人に逢うことの譬え。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。「多き」は、上の「や」の結びで連体形。この係り結びは、「なぜ?」という自問自答の強調と、終止形の「多し」で言い切るのではなく、連体形の「多き」で終わらせることで、「だからこんなに苦しいのだ」という、言葉にならない切ない余韻を読者に抱かせます。相手に逢う機会が少なく、恋い焦がれてばかりいる男の嘆きの歌です。

 
1395の「沖つ波寄する荒礒」の「沖つ波」は、沖の波。「荒磯」は、アライソの約で、荒々しい磯。周囲の物言いの騒がしい意を寓しているとされます。「名告藻」は、海藻のホンダワラの古名。「な告りそ(人に告げるな)」に掛けていて、妻との関係を秘密にしていることを意味しています。「疾となれり」の「疾」は、差し障り、病気、痛みで、恋の悩みで心身が衰弱している様子を指します。秘密にしていることの苦しさ、また、それ故なかなか逢うことのできない辛さを歌っている男の歌です。

 
1396の「紫の」は、高貴な色として名高い意で、地名「名高」にかかる枕詞。「名高の浦」は、現在の和歌山県海南市名高の入江。当時は深く陸地に入り込んでいたといいます。「なのりその礒に靡かむ時」は、海藻が波の流れに従ってゆらめく様子。転じて、女が忌名を告って自分(男)に寄り添ってくれる時を譬えています。「待つ我れを」の「を」は詠嘆で、「よ」というのに当たります。待っている私であることよ。

 
1397の「荒礒越す波は畏し」は、荒磯を越えてやってくる波は恐ろしい。周囲の状況が厳しいさま、あるいは、娘の保護者の監視が厳しいことの譬え。「しかすがに」は、そうではあるが、そうは言ってもやはり。「海の玉藻」は海の美しい海藻で、女の喩え。「憎くはあらずて」は、憎いわけではない、嫌いにはなれない。荒々しく砕ける白い波と、その下で揺れる柔らかな藻の対照的なイメージを用いることで、翻弄される作者の恋心を立体的に浮かび上がらせています。また、「好きだ」と言うのではなく、「憎くはない」と表現するところに、作者の繊細な心理が読み取れます。ひどい目に遭わされている、あるいは苦労させられている自覚があるからこその「憎くはない」という言葉であり、そこには深い執着が滲んでいます。
 


あら(荒・現・新)

 アラは多く「荒」の文字で表記される。その「荒」は、通常、接頭辞的な語素として他の名詞と複合する。「荒野」「荒海」「荒磯」などがその例になる。「荒野」のアラには、荒涼とした、荒れ果てた野の印象がうかがえるが、「荒海」「荒磯」などのアラには、むしろ勢いの激しさが感じられる。古橋信孝は、このようなアラを「本来は始原的な、霊力が強く発動している状態をあらわす言葉」であるとする。「荒野」は、開墾されていない野だが、そこはむしろ「霊威が強くて近づいてはいけない野」であり、それゆえ、人間から見れば荒涼とした、荒れ地として捉えられることになる。「荒磯」についても、岩に勢い激しく打ち寄せる白波が、海の神の霊威を強く現すような場であるとする。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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