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巻第7(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第7-1409~1413

訓読

1409
秋山の黄葉(もみち)あはれとうらぶれて入りにし妹(いも)は待てど来まさず
1410
世間(よのなか)はまこと二代(ふたよ)はゆかざらし過ぎにし妹(いも)に逢はなく思へば
1411
幸(さきは)ひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹(いも)が音(こゑ)を聞く
1412
吾(わが)背子を何処(いづく)行かめとさき竹の背向(そがひ)に宿(ね)しく今し悔しも
1413
庭つ鳥(とり)鶏(かけ)の垂(た)り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも

意味

〈1409〉
 秋の山のもみじが素晴らしいと、その山にしょんぼりと入って行った妻は、待っていても帰って来ない。
〈1410〉
 この世では、人の一生は本当に二度はめぐっては来ないらしい。亡くなった妻に再び逢えないことを思うと。
〈1411〉
 何という幸いに恵まれた人か、黒髪が白髪になるまで二人とも健やかで、妻の声を聞くことができるのは。
〈1412〉
 私の夫が、どこへも行くはずはないと思って、生前につれなくして後ろを向いて寝たりして、今となっては悔しくてならない。
〈1413〉
 鶏の垂れた尾のように乱れていて、ゆったりした気分になど、とてもなれそうにありません。

鑑賞

 作者未詳の「挽歌」5首。1409の「黄葉あはれと」の「あはれ」は、素晴らしい、面白い。「うらぶれて」は、しょんぼりと、心しおれて。「入りにし妹は」は、山の奥へ(死出の旅へ)入っていってしまった妻は。「待てど来まさず」は、いくら待っても帰ってこない。思う人を待ちわびる慣用句で、「来まさず」は、女性に対しての慣用の敬語。亡くなった妻を秋山に葬った後に夫が詠んだ歌。古代、死者の霊魂が他界へ赴く道の一つとして山中の道があると考えられていたらしく、一方、秋山の黄葉に対する風流心が貴族社会に形成されてくると、秋の季節に亡くなった女は秋山の黄葉に惹かれて迷い込むのだとする発想が生まれたと言われます。柿本人麻呂の妻が死んだ後に作った「泣血哀働」歌の反歌に「秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずも」(巻第2-208)とあるのは、まさにそれであるとされます。

 
1410の「世間は」は、この世というものは。「まこと」は、実際、本当に。「二代はゆかざらし」は、二度と来ないようだ。「二代」は二つの生涯、つまり「現世」と「来世」、あるいは一度死んでからもう一度生き返ること。「ざらし」は「ざるらし」の約。「過ぎにし妹」は、世を去った妻。「逢はなく」は「逢はず」のク語法で名詞形。亡くなった妻に逢えないことを失望している夫の歌で、「ゆかざらし」という表現には、「世間ではそう言われているが、実際にあなたが帰ってこないのを見ると、本当にその通りなのだな」という、残酷な事実を認めざるを得ない過程が反映されています。。

 
1411の「幸ひのいかなる人か」は、「いかなる幸ひの人か」で、何という幸いの人か。この「か」を受けて、結句の「聞く」を連体形で結んでいます。「黒髪の白くなるまで」は、若かりし頃の黒髪が、老いて白髪になるまで。つまり、一生涯。直接に妻の死を悲しんでいるのではなく、共白髪で年老いた幸せな夫婦を羨むかたちで、亡き妻を哀惜しています。老齢にさしかかって初めてしみじみと共感できる歌であり、また、妻に先立たれた高齢男性にとっては、まことに胸の痛む歌です。幸福の価値は、失ってからでなければ分からないのかもしれません。作家の田辺聖子は、「歌のしらべとしてはごつごつとして野暮ったいが、我々はそこに真率な、りちぎな男の、埋められぬ悲哀と空虚を見る」と言い、斎藤茂吉は、結句の「声を聞く」の「聞く」だけで詠歎の響があると言っています。

 
1412の「何処行かめと」の「め」は「む」の已然形で、反語。どこへ行ってしまうだろうか(いや、どこへも行きはしないだろう)と思って。「さき竹の」は、割った竹は重ねてもしっくりしないところから、後ろ向きの意の「背向」の枕詞。「背向に宿しく」の「宿しく」はク語法による名詞形で、背中合わせになって寝たこと。「今し悔しも」は、今となっては悔しくてならない。「今し」の「し」は、強意の副助詞。夫婦が言い争った後の行為だったのでしょうか、それを思い出して悔やんでいます。永遠に続くと思っていた日常が断絶した瞬間に湧き上がる自責の念が核心にあります。

 なお、巻第14の東歌のなかに「愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも」(3577)という似た歌があり、これについて
斎藤茂吉は「巻七の方が優っている。巻七の方ならば人情も自然だが、巻十四の方はやや調子に乗ったところがある。おもうに、巻七の方はまだ個人的歌らしく、つつましいところがあるけれども、それが伝誦せられているうち民謡的に変形して巻十四の歌となったものであろう」と言っています。

 
1413の「庭つ鳥」は、庭の鳥という意味で「鶏」の枕詞。ニワトリという呼び名はここから生じたと考えられています。当時の「鶏」は「かけ」と呼ばれており、鳴き声に由来するとされます。「垂り尾の乱れ尾の」は、長く垂れ下がった尾や、あちこちに乱れた尾のように。上3句が「長き」に続く譬喩式序詞。「長き心も」は、長く一途に思い続ける心。あるいは、ゆったりと落ち着いた心。
 


そがひ(背向)

 『万葉集』で「背向」と書かれることから、「背後」「後ろの方」の意味で取られることが多いが、「遥か彼方」「遠く離れゆくイメージ」という意味合いも指摘され、万葉集の用例すべてに適用できる現代語を当てることは難しい。

 語構成については、「背向」という表記との関係で「ソ(背)+ムカヒ(向)」とされる。ただし「ムキ+アヒ」がムカヒとなるように、ソガヒを「ソキ(退)+アヒ」の約とする説も見られる。

 万葉集の用法には、「背向に見ゆる」「背向に見つつ」「背向に寝しく」という三種類の形式が見られる。なかで最も意味が取りやすいのは「背向に寝しく」という形式であり、「背を向け合って」の意であると容易に理解できる。「背向に見ゆる」「背向に見つつ」という形式の場合は、「背を向ける」といった意味から離れて、物理的あるいは心理的距離感が表される。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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斎藤茂吉と『万葉集』

 近代アララギ派の巨匠であり、精神科医でもあった斎藤茂吉(1882〜1953年)にとって、『万葉集』は単なる古典の研究対象を超え、彼の歌生命の源泉であり、生涯をかけた信仰そのものでした。茂吉の『万葉集』に対する関わりは、熱狂的な「万葉調」の創作実践と、緻密な実証精神に基づく膨大な研究という、実作と学問の幸福な結実として語ることができます。

  1. 創作における結晶~「実相観入」と万葉の生命力
     茂吉は師である正岡子規、伊藤左千夫が提唱した「写生」の説を発展させ、独自の芸術論である「実相観入(じっそうかんにゅう)」へと深化させました。「実相観入」とは、歌い手自身の主観(心)が、対象(自然や現実の事物)のありのままの姿(実相)に深く溶け込み、一体化することによって、対象そのものの内なる生命を写し取る、という歌学理論です。この理論のバックボーンとなったのが『万葉集』でした。茂吉は万葉和歌に、後世の技巧や理屈に曇らされていない「人間と自然とのダイレクトなぶつかり合い」を見出しました。

     彼の第一歌集『赤光(しゃっこう)』(1913年)や、それに続く『あらたま』では、万葉の響きや語彙(「〜かも」「〜ゆゆし」など)を大胆に導入しながら、近代人の強烈な自我や、生と死、エロスへの衝動を、圧倒的なエネルギーで詠み上げました。彼にとって万葉調とは、回顧的な擬古(古典の真似事)ではなく、「現代の生を最も力強く表現するための唯一の武器」だったのです。
  2. 研究における執念:大著『万葉秀歌』と評釈の山
     茂吉は生涯を通じて『万葉集』の研究に没頭し、専門の国文学者も驚嘆するほどの質と量を誇る業績を残しました。そのアプローチは、精神科医(科学者)としての冷徹な実証眼と、歌人としての鋭い直感が融合したものでした。彼の著書『万葉秀歌』(岩波新書)は、上代和歌の入門書・鑑賞書として今なお読み継がれる名著です。万葉集から厳選した秀歌について、一首一首の言葉の響きや情景を、実作者ならではの感性で活写しています。

     また、『評釈万葉集』などの膨大な注釈作業によって、柿本人麻呂や山部赤人、大伴家持ら、万葉の歌人一人ひとりの作品を徹底的に語釈(言葉の意味の解釈)し、評釈を加えました。特に柿本人麻呂への傾倒は凄まじく、全5巻に及ぶ『柿本人麻呂』を著し、帝国学士院賞を受賞しています。

     茂吉の評釈の特徴は、単に訓読や文法を整理するだけでなく、「その歌が詠まれた瞬間の、歌人の心の動き(心理的リアリティ)」にどこまでも迫ろうとした点にあります。
  3. まとめ
     江戸時代の本居宣長らが「古代の正しい言葉と心」を解き明かすために『万葉集』に向き合ったのだとすれば、斎藤茂吉は「千年前の強靭な生命力を、現代の短歌の中に完全に蘇生させる」ために万葉に向き合いました。彼によって『万葉集』は、埃をかぶった古典籍から、今を生きる人間のドクドクと脈打つ感情を表現するための「生きた教科書」へと変貌を遂げたと言えます。
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。