| 訓読 |
1432
我(わ)が背子が見らむ佐保道(さほぢ)の青柳(あをやぎ)を手折(たを)りてだにも見むよしもがも
1433
打ち上(のぼ)る佐保の川原(かはら)の青柳(あをやぎ)は今は春へとなりにけるかも
1434
霜雪(しもゆき)もいまだ過ぎねば思はぬに春日(かすが)の里(さと)に梅の花見つ
| 意味 |
〈1432〉
あなたがご覧になるであろう佐保道の青柳を、たとえ枝の一本を手折ってでも眺めることができる方法はないでしょうか。
〈1433〉
上っている佐保川の川原に立ち並ぶ美しい青柳は、すっかり春の装いになってきたのだな。
〈1434〉
霜も雪もまだ消えやらぬのに、思いがけず春日の里で梅の花を見かけた。
| 鑑賞 |
1432・1433は、大伴坂上郎女の歌。異母兄・旅人が、長年連れ添った妻の大伴郎女を伴い太宰帥として着任したのが神亀5年(728年)春、しかし、着いて1か月ほどで大伴郎女が亡くなってしまいます。都にいた坂上郎女が一人はるばると大宰府に向かったのは、その翌年(729年)のはじめ頃だったと思われます。ここの歌は「柳の歌」とある2首で、大宰府にいる郎女が、都へ上ろうとする近親の男(誰であるかは未詳)に向かって詠んだ歌とされます。
1432の「見らむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。「佐保道」は、奈良市北部の佐保へ行く道。佐保は郎女の家があった奈良の地で、故郷の恋しさから、そこへ行く川原に生えている青柳を思い浮かべています。「青柳」は、青く芽吹いたしだれ柳。日本でヤナギと呼ばれる木には、柳のほかに楊があります。柳は枝の垂れさがるヤナギで、楊は枝の下垂しないヤナギ。「見むよし」は、見る方法。「もがも」は、懇願的な願望。
1433の「打ち上る」の「打ち」は接頭語で、川沿いを高地に向かって上りになっている佐保の地勢を言っているもの。「春へ」は、春の頃。前の歌が佐保から遠く離れた地で詠んでいるのに対し、この歌は佐保の地にあって青柳を眼前にして詠んだごとくですが、窪田空穂は、「『今は』というのは、その時の日取りからいっているもので、今頃はというと同じく、その地に馴れている身とて、想像によって、目に見ると同じ確信をもって言いうることである」と述べています。
1434は、大伴三林(おほとものみはやし)の歌。大伴三林は伝未詳。大伴三依(おおとものみより)の誤記ではないかともいわれます。「霜雪もいまだ過ぎねば」は、霜や雪が降る寒い季節がまだ終わっていないので、の意。「思はぬに」は、思いがけず。「春日の里」は、奈良市東方、春日山一帯の里。唐の長安の都を手本に造営された平城京ですが、その春日の里には舶来の梅の木が植えられていたらしく、1437、1438にも春日の里の梅の花を歌った歌があります。「見つ」は、見た、見つけた。「つ」は完了の助動詞で、発見した瞬間の確信や喜びを表します。

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「平城京」は何と読む?
710年に藤原京から遷都された平城京は、唐の都・長安をまねて造ったというのが定説になっています。しかし、長安は羅城(らじょう)といって、都市全体が高い城壁で囲まれていました。同じように唐をまねた朝鮮やベトナムの国々は羅城となっていますが、日本はそうなってはいません。ただ「京城垣(けいじょうがき)」という境界を示す垣根は存在したようです。
これは、決して城壁の建設費用をケチったわけではなく、中国・朝鮮・ベトナムなどの国々は陸続きであるため、いつ異民族に侵略されるか分からないという危機意識があったのに対し、島国である日本にはその心配がなかったからだといわれています。平城京は、軍事的色彩のない、極めて平和的、政治的な都として造られたわけです。
ところで、この平城京は、奈良時代には「へいじょうきょう」ではなく「ならきょう」と読まれていた可能性があるそうです。平城と書いて「なら」と読ませている例が多数見られるからです。「平」の元々の語源は平地を意味する「なら」で、それだけで「なら」と読めるわけですが、地名は漢字2文字が望ましいとの当時の考えから「城」を加えたともいわれています。ほかにも「乃楽」「寧楽」なども「なら」と読ませており、これらは平安時代になって「奈良」に統一されたようです。

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