| 訓読 |
1484
霍公鳥(ほととぎす)いたくな鳴きそひとり居(ゐ)て寐(い)の寝(ね)らえぬに聞けば苦しも
1485
夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らば移(うつ)ろひなむか
1486
我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)を霍公鳥(ほととごす)来(き)鳴かず地(つち)に散らしてむとか
1487
霍公鳥(ほととぎす)思はずありき木(こ)の暗(くれ)のかくなるまでに何か来(き)鳴かぬ
1488
いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥(ほととぎす)我家(わぎへ)の里(さと)に今日(けふ)のみぞ鳴く
1489
我(わ)が宿(やど)の花橘(はなたちばな)は散り過ぎて玉に貫(ぬ)くべく実になりにけり
| 意味 |
〈1484〉
ホトトギスよ、そんなにひどく鳴かないでおくれ。独り眠れないでいる今の私には、お前の鳴き声を聞くのは苦しくてならない。
〈1485〉
夏を待ってやっと咲いたはねずの花は、雨が降ったら色褪せてしまうのではないだろうか。
〈1486〉
我が家の庭にせっかく咲いた橘の花を、ホトトギスは、来て鳴かないままいたずらに地面に散らしてしまおうというのか。
〈1487〉
ホトトギスよ、思いもかけないことだ。橘が茂ってこんなに暗くなるまで、なぜやって来て鳴かないのか。
〈1488〉
どこかではとっくに鳴いていただろうに、ホトトギスは、今日になって初めて我が家の里で鳴いた。
〈1489〉
我が家の庭の花橘はすっかり散り果てて、今玉として緒を通せるほどに実がなってしまった。
| 鑑賞 |
1484は、大伴坂上郎女の歌。「いたくな鳴きそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「寐の寝らえぬに」は、眠ることができないのに。「らえ」は、自発、可能の意を添える接尾語「らゆ」の未然形。「ぬ」は、打消の助動詞連体形。この歌について作家の大嶽洋子は、「眠れないで苦しむ一人寝のせつなさを、夜の闇に鳴くほととぎすと分かち合っているようなこの歌は、私にはほととぎすの声をむしろ頼みとして、ずうっと鳴いて欲しいと思っている、反語のように受け取れる」と述べています。また、不眠について歌ったのは万葉も時代が下がったこの郎女の歌が初めてだそうです。
1485~1489は、大伴家持の歌。1485は「唐棣花(はねず)」の歌。ハネズはバラ科の庭梅で、晩春から初夏にかけて薄紅色の花を咲かせます。「夏まけて」は、夏を待ち受けて。「ひさかたの」は「天(あめ)」の枕詞ですが、ここは転じて同音の「雨」の枕詞に用いています。集中50例ある枕詞ですが、語義・掛かり方とも未詳。「雨うち降らば」の「うち」は、接頭語。「移ろふ」は、変化する、色褪せる、衰える。ここは色褪せる意。ハネズの薄紅色は色の褪せやすいものと考えられていて、「はねず色の移ろひやすき我が心かも」(巻第4-657)や「はねず色の移ろひやすき心あれば」(巻第12-3074)などの用例があります。
1486・1487は「霍公鳥の晩(おそ)く鳴くを恨むる」歌。1486の「宿」は、家の敷地、庭先。「花橘」は、花の咲いた橘の称で、「花橘を」は、せっかく咲いた橘の花なのに、その花を、の意。「散らしてむとか」の「か」は疑問で、散らしてしまおうとするのか。1487の「思はずありき」は、思いもかけなかった。「木の暗」は、木々が茂って日光をさえぎる暗がり。「何か来鳴かぬ」の「か」は疑問の係助詞で、「鳴かぬ」は、連体形の結び。なぜ来て鳴かないのか。
1488は「霍公鳥を懽(よろこ)ぶる」歌。「いづくには」は、どこかでは。「鳴きにもしにけむ」の「けむ」は過去推量で、鳴いていただろう。「我家(わぎへ)」は、ワガイヘの約。「今日のみぞ鳴く」の「今日のみぞ」は「今日」を強める意で、今日初めて鳴く。ホトトギスをこよなく愛した家持が詠んだホトトギスの歌は64首あり、集中のホトトギスの歌の約4割を占めています。
1489は「橘の花を惜しむ」歌。「過ぎて」は、経過して。「玉に貫く」は、紐を通して薬玉(くすだま)にすること。薬玉は五月の節句に邪気を払うために用いられました。「実になりにけり」の「けり」は、詠嘆。前出の1478で早く実になることを期待したのに対し、この歌は逸早く散り果てた花を惜しむ気持ちを詠んでいます。

『万葉集』に詠まれた鳥
1位 霍公鳥(ほととぎす) 153首
2位 雁(かり) 66首
3位 鶯(うぐいす) 51首
4位 鶴(つる:歌語としては「たづ」) 45首
5位 鴨(かも) 29首
6位 千鳥(ちどり) 22首
7位 鶏(にわとり)・庭つ鳥 16首
8位 鵜(う) 12首
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