| 訓読 |
1490
霍公鳥(ほととぎす)待てど来(き)鳴かず菖蒲草(あやめぐさ)玉に貫(ぬ)く日をいまだ遠(とほ)みか
1491
卯(う)の花の過ぎば惜(を)しみか霍公鳥(ほととぎす)雨間(あまま)も置かずこゆ鳴き渡る
1492
君が家の花橘(はなたちばな)は成りにけり花なる時に逢はましものを
| 意味 |
〈1490〉
ホトトギスを待っているのに来て鳴かない。菖蒲の根を薬玉にまじえて貫く日が、まだ遠いせいなのだろうか。
〈1491〉
卯の花が散り過ぎてしまうのを惜しんでいるのか、ほととぎすは雨の降る間も休まず鳴きまわっている。
〈1492〉
あなたの家の花橘は、もう実になってしまったのですね。花の咲いているうちにお逢いしたかったのに・・・。
| 鑑賞 |
1490・1491は、大伴家持の歌。1490は「霍公鳥の歌」。「菖蒲草玉に貫く日」は、菖蒲の強い臭気にに邪気を払う力があるとして、根を刻んで、五月五日の節句の薬玉にまじえて貫くことをいっています。霍公鳥はその日にやって来るとされました。「いまだ遠みか」の「か」は疑問で、まだ遠いせいか。ホトトギスを待ちながらも、その来る月とされる五月の節供の日がまだ遠いせいかと思って、諦めようとしている心です。
1491は「雨の日に霍公鳥の鳴くを聞ける歌」。「卯の花」は、初夏を告げる花で、『万葉集』ではホトトギスとの取り合わせで多く詠まれています。「過ぎば」は、散り過ぎてしまえば。「惜しみか」の「か」は疑問で、惜しいゆえか。「雨間」は、雨が降っている間または雨の晴れ間を言いますが、ここは前者。「置かず」は、途切れることなく。「こゆ鳴き渡る」の「こゆ」は、ここを通って。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。ホトトギスを擬人化し、まるでその花の情景を惜しむかのように、雨の中を途切れなく鳴き渡るさまを歌っています。
1492は、題詞に「橘の歌一首」とある遊行女婦の歌で、名前は分かりません。大伴家の宴席に侍した時の歌とされます。「君」は、大伴家持を指しているかともいわれます。「花橘」は、花の咲いている時の橘の称。「成りにけり」の「成り」は、実になる意で、結婚の譬え。「けり」は、そのことにたった今気づいた気持ちを表す助動詞。「花なる時」は、花にある時、花の状態である時の意で、独身の青春時代の譬え。「逢はましものを」の「まし」は、反実仮想。題材は橘の花なので「見る」と言うべきところを、あえて「逢ふ」と表現しており、男性がすでに家庭を持っているのを知って、「もっと前からお逢いしたかった」との意を含んでいます。

ホトトギス
ホトトギス科の鳥で、鳩よりやや小さく全長27、8cm。頭と背が黒っぽい灰色、腹は白く、黒い黄斑があります。冬は南方で過ごし、日本へは初夏(5月ごろ)に渡来し、山から人里に来て鳴きます。鳴き声は、テッペンカケタカまたはトッキョキョカキョクなどと聞き馴らされています。万葉時代とくに後期以降に愛好され、集中に詠まれた鳥の中で最も多く、153首に歌われています。中でも大伴家持に64首もあり、こよなくホトトギスを愛したことが窺えます。
なお、『万葉集』でのホトトギスの表記は、一字一音で書く以外はすべて「霍公鳥」となっています。中国では一般に杜鵑、子規、杜宇などのほか多くの表記がありますが、霍公鳥はなく、出典が明らかではありません。これを音読すれば、クヮクコウ鳥であるため、郭公(かっこう)と何らかの関係があるものと考えられます。両者はともに鳴き声からつけられた名で、鳴き方はホトトギスが鋭く激しいのに対し、カッコウはのどかにゆったり鳴くので、対照的です。しかし、ともにホトトギス科に属し、体長はカッコウがやや大きい程度で、体形・体色それに托卵の習性など、多くの類似点があります。しかも『万葉集』には、あの親しみやすい鳴き声のカッコウを詠んだ歌が一首もないことが、古くから問題とされています。
そこで、万葉でいうホトトギスは、霍公鳥の文字からしても、実はカッコウではないかとか、両者を含むホトトギス科の鳥の総称であろうとか、あるいは当時はそれぞれを別の鳥とする認識がなく、同じ鳥が夜昼や雌雄または幼鳥と成鳥などの違いによってさまざまに鳴くと考えられていたのだろう、などと言われています。
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