| 訓読 |
1500
夏の野の茂みに咲ける姫百合(ひめゆり)の知らえぬ恋は苦しきものぞ
1501
霍公鳥(ほととぎす)鳴く峯(を)の上(うへ)の卯(う)の花の憂(う)きことあれや君が来まさぬ
1502
五月(さつき)の花橘(はなたちばな)を君がため玉にこそ貫(ぬ)け散らまく惜しみ
1503
我妹子(わぎもこ)が家(いへ)の垣内(かきつ)のさ百合花(ゆりばな)ゆりと言へるは否(いな)と言ふに似る
| 意味 |
〈1500〉
夏の野の繁みににひっそりと咲いている姫百合、それが人に気づいてもらえないように、あの人に知ってもらえない恋は苦しいものです。
〈1501〉
ホトトギスが鳴く山の頂に咲いている卯の花、その名のように憂いと思うことが私にあったのだろうか、あの方は来られない。
〈1502〉
五月に咲く橘を、あなたのために薬玉として紐を通しておきました。花が散ってしまうのが惜しいので。
〈1503〉
あなたの家の垣根の内に咲いている百合の花、その名のように、ゆり(後で)と言っているのは、嫌だと言っているように聞こえる。
| 鑑賞 |
1500は、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の「夏の相聞歌」。女の恋歌の代表作といってよい1首です。上3句は、夏野にひっそりと咲く姫百合の意で、「知らえぬ」を導く序詞であるとともに、歌の情景を設定しています。「知らえぬ恋」の「え」は受身の助動詞で、姫百合が人に知られない意と、相手に知ってもらえない恋の意を掛けています。「姫百合」は、百合の一種で、鬼百合に比べると茎も花も小さく、夏に朱色または黄色の花が咲きます。『万葉集』で姫百合を詠んだ歌はこの1首だけですが、小さいながらも、鮮やかに咲く姫百合の花姿からは、片思いの息苦しさの感覚までもが伝わってくるかのようです。「苦しきものぞ」の「ものぞ」は、〜というものだよ、という強い詠嘆・断定を表します。詩人の大岡信は、「坂上郎女の歌としてはやや意外な感じがするくらい純情可憐な恋歌であり、ひょっとしてまだ年若い親族の女に代わって作ってやった歌かもしれない、などと想像もされる」と言っています。序詞の情景描写と視覚的コントラストが極めて鮮やか且つ印象的であり、それゆえ名歌たりえている歌です。
1501は、小治田朝臣広耳(をはりだのあそみひろみみ:伝未詳)の、女の立場で詠んだ歌。「峯」は、山の頂。上3句は「卯の花」のウの同音反復で「憂き」を導く序詞。「憂きこと」は、不快に思うこと。「や」は、疑問の「か」と同じ。巻第10-1988に、この歌より古い「鴬(うぐひす)の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ」の類歌があります。この時代は、古歌を踏襲することは広く行われていたらしく、上2句を変えて宴席などで歌ったものと見られています。
1502は、大伴坂上郎女の歌。「五月の」は不足音句となるため、サツキノヤと訓むものもあります。「花橘」は、花の咲いている時の橘の称。白く香りが高いのが特徴です。「玉」は、5月の節句に邪気を払うために作られた、錦の袋に香料を入れ、5色の紐を垂らした飾りのこと。単に花を摘むだけでなく、一つひとつ糸に通して「玉」にするのは、手間と時間がかかる作業でもあります。その丹精込めるプロセス自体が、相手に対する真心を象徴しています。「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。「惜しみ」は「惜し」のミ語法で、惜しいので。橘の花は散りやすいため、その美しさと香りを留めようとする作者の慈しみが込められています。
1503は、紀朝臣豊河(きのあそみとよかわ)の歌。紀朝臣豊河は、天平11年(739年)に正六位上から外従五位下になった人で、『万葉集』にはこの1首のみ。「垣内」は、垣根の内。「さ百合花」の「さ」は、美称の接頭語。上3句は「ゆり」を導く同音反復式序詞。「ゆり」は、後日、後に、の意の古語。「否と言ふに似る」は、嫌だと言うのに似ている。8文字の字余りになっていますが、単独母音イを含むので許容される字余り句です。言葉の戯れのようにも聞こえますが、真剣に恋している男の、女に対する婉曲な恨み歌です。この歌について、窪田空穂は次のように言っています。「求婚ということを中に置いての男女の心理の機微を、いみじくもあらわしているものである。結婚前の女の心理として、本来消極的である上に、警戒心が強く働くところから、一応躊躇するのは当然なことである。反対に男は、積極的である上に、情熱的となっているので、女のその態度をあきたらずとして、否といったのに似ていると感じるのも、これまた当然である」。

大岡 信
昭和6年(1931年)生まれの詩人、評論家。歌人大岡博の長男。東大国文科卒。読売新聞社外報部記者を経て、明治大学、東京芸術大学で教鞭を執る。1979年から朝日新聞に連載した「折々のうた」で菊池寛賞を受賞。1995(平成7)年恩賜賞、日本芸術院賞受賞。1996年朝日賞受賞。1997年文化功労者。2003年文化勲章受章。詩集『春
少女に』などのほか、『紀貫之』『ことばの力』『正岡子規』『岡倉天心』など著書多数。

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