| 訓読 |
1527
牽牛(ひこほし)し嬬(つま)迎へ舟(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天の川原(かはら)に霧の立てるは
1528
霞(かすみ)立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ
1529
天の川 浮津(うきつ)の波音(なみおと)騒(さわ)くなり我(あ)が待つ君し舟出(ふなで)すらしも
| 意味 |
〈1527〉
牽牛が妻を迎える船を漕ぎ出したらしい。天の川のほとりに霧が立っているのはそのせいだろう。
〈1528〉
霞がかかっている天の川の川原を、行ったり来たりしてあなたをお待ちしていたら裳の裾が濡れてしまいました。
〈1529〉
天の川の船着き場の波音がざわめいてきた。お待ちするあの方が舟出されたらしい。
| 鑑賞 |
1518~1526に続き、題詞に「山上憶良が七夕の歌十二首」とあるうちの3首。1527は第三者の立場、1528・1529は織女の立場の歌。1527の「彦星し」の「し」は、強意の副助詞。「嬬迎へ舟」は、牽牛が妻の織女を迎えに行くための舟。「漕ぎ出らし」は、漕ぎ出したらしい。「らし」は、客観的な根拠に基づく推定の助動詞。「霧の立てるは」は、霧が立ちこめているのは。「は」は提示・強調の助詞で、「霧が立っている、その様子を見ると(漕ぎ出したのだとわかる)」という因果関係を示します。舟を漕ぐ櫂の水しぶきが霧になるという発想に拠ります。
1528の「霞」は、ここでは霧。「君待つと」は、あなたを待とうとして。「と」は目的や意図を表します。「い行き帰るに」は、行ったり来たりしているうちに。「い」は動詞の頭に付く接頭辞で、語調を整えたり、動作を強調したりします。織女の、心が浮き立ちそわそわする様子を表しています「裳の裾濡れぬ」の「濡れぬ」は、濡れてしまった。「ぬ」は完了の助動詞。裾がしっとりと濡れるほど、長い時間そこにいたことを示すと共に、汚れや濡れることを厭わず、ひたすら相手を求めて川辺に身を置くひたむきさが伝わります。
1529の「浮津」は、天の川にある船着き場。天空に浮かぶものとしてこのように言ったとみえます。「波音騒くなり」の「なり」は聴覚による推定。「波音騒く」は、物理的な音の大きさだけでなく、織女の胸の高まりをも表現しています。「我が待つ君し」の「し」は、強意の副助詞。「舟出すらしも」は、(いよいよ)舟を出したらしいなあ。「らし」は客観的な根拠(波音)に基づく推定、「も」は詠嘆。それまで霞や霧に包まれ、視覚的にはっきりしなかった天の川の情景が、この歌で「音」によって一気に動き出し、期待が確信に変わる瞬間を劇的に表現しています。
もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、すでに天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。
このころには神仙道も渡来し、これと相俟って行われましたが、七夕の方が一段と喜ばれたらしく、『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あります。ただし、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しており、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。
なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した――。ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。女が男に逢いに行くというのは、日本人の共感を呼ぶには無理なストーリーだったのでしょう。

山上憶良の略年譜
701年
第8次遣唐使の少録に任ぜられ、翌年入唐。この時までの冠位は無位
704年
このころ帰朝
714年
正六位下から従五位下に叙爵
716年
伯耆守に任ぜられる
721年
東宮・首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任ぜられる
726年
このころ筑前守に任ぜられ、筑紫に赴任
728年
このころまでに太宰帥として赴任した大伴旅人と出逢う
728年
大伴旅人の妻の死去に際し「日本挽歌」を詠む
731年
筑前守の任期を終えて帰京
731年
「貧窮問答歌」を詠む
733年
病没。享年74歳
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