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巻第8(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第8-1535~1538

訓読

1535
我(わ)が背子(せこ)をいつぞ今かと待つなへに面(おも)やは見えむ秋の風吹く
1536
宵(よひ)に逢(あ)ひて朝(あした)面(おも)なみ名張野(なばりの)の萩は散りにき黄葉(もみち)早(はや)継(つ)げ
1537
秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花〈其の一〉
1538
萩(はぎ)の花(はな)尾花(をばな)葛(くず)花なでしこの花をみなへしまた藤袴(ふぢはかま)朝顔の花〈其の二〉

意味

〈1535〉
 愛しいあの方はいつ来るのか、今か今かとお待ちしているのに、あなたは見えず、秋風だけが吹いている。
〈1536〉
 宵に逢って翌朝には恥じらって面と向かえず隠(なば)るという、その名張野の萩は散ってしまった。もみじよ、すぐに続け。
〈1537〉
 秋の野に咲いている花を指折り数えてみると、七種類あります。(その一)
〈1538〉
 秋の野に咲く七種類の花は、萩、すすき、くず、なでしこ、おみなえし、そして藤袴、朝顔です。(その二)

鑑賞

 1535は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)の七夕の歌。牽牛を待ち焦がれる織女の立場で詠んだとされます。「なへに」は、とともに、と同時に。「面」は、顔。「やは」は、反語。「秋の風」は、7月1日から吹くものとされていました。宇合は漢詩文にも素養があり、わが国最古の漢詩集『懐風藻』にも6編の漢詩を残しています。秋風が吹く中、女性が男性の訪れがないことを閨房(けいぼう=寝室)で嘆く詩が、『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』など中国の宮廷詩にいくつも見られ、宇合はそれらを踏まえて作歌したのではないかとみられています。

 
藤原宇合は不比等の3男で、藤原4家の一つである「式家」の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、後に「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥の蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。正三位参議で終わりましたが、長く生きていれば当然、納言・大臣になれたはずの人です。『万葉集』には6首の歌が載っています。

 
1536は、縁達帥(えんだちし:伝未詳)の歌。縁達は僧の名、師は法師かとも言います。「宵」には、夜の意、あるいは夜の前半すなわち宵の口の意がありますが、ここは後者。「逢ひて」は、ここは共寝をした意。「朝面なみ」は、前夜男と共寝した女が翌朝恥ずかしくて顔を隠す意。ここまでの2句は、隠れる意の「隠(なば)る」の名詞形「なばり」に続けて「名張」を導く序詞としたもの。「名張野」は、三重県名張市付近の野で、京から伊勢へ通じる要路にあたります。「早継げ」の「継げ」は、命令形。

 1537・1538は、
山上憶良が秋の野の花を詠んだ歌で、「其の一・其の二」と注記のある2首1組の珍しい形になっています。1537の「指(および)」は「ゆび」の俗語。今、手を「おてて」、足を「あんよ」というような幼児語であったかと言われます。「かき数ふれば」の「かき」は、接頭語。「七種の花」は、七種類の花。1538は、前歌が短歌形式であるのに対し旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)で秋の七草を詠っています。短歌形式では七草すべてを詠み込むことができなかったからです。「尾花」はススキで、花が尾に似ているための名。「朝顔」は、現在のアサガオではなく、桔梗(ききょう)、むくげ等ではないかとの諸説があります。春の七草が、七草粥など食用にされるのに対し、秋の七草はもっぱら鑑賞用となっています。憶良のこの歌によって「秋の七草」が定着したと考えられています。なお、もともと「ななくさ」は「七草」ではなく、1537にあるように「七種」の意です。

 憶良は、7種類を数えあげることに拘っていたのかもしれません。漢語や仏典に、七賢・七生・七宝・七曜などのように、「七」を特別な数とする考え方があったからです。1537の「指折りかき数ふれば」には、秋の野にいる憶良が、指折り数えて草花を吟味しているさまが窺え、どことなくユーモラスな感じがします。また、文学者の
鈴木武晴は、「指(および)折り」という言い方は、子供と一緒に数えたり、数を数えたりする行為を表しているだろうとして、旋頭歌について「花の名のみからなる歌だが、心が満たされあたたかくなる不思議な歌。憶良の指の動作に合わせてかわいい花のような小さな手の指を折って花の種類を数えていた子もいたであろう」と述べています。
 


藤原四家

 藤原不比等の4人の息子が立てた家系を藤原四家といいます。大化改新に功のあった鎌足が、天智天皇から藤原朝臣の姓(かばね)を賜り、文武天皇は不比等の子孫に藤原の姓を認め、これによって律令官僚貴族としての藤原氏の隆盛の基礎が堅固なものとなりました。不比等の子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人が、それぞれ南家、北家、式家、京家の4家に分かれました。

 南家は武智麻呂のあと、仲麻呂(恵美押勝)、巨勢麻呂、乙麻呂などが出て、一時栄えたものの、恵美押勝の乱をはじめとする政界の事件に関係したことから、あとへ続くことができませんでした。式家は宇合の子、広嗣、良継、清成、田麻呂、百川、蔵下麻呂などがありましたが、これも続きませんでした。京家は麻呂のあと浜成、百能などがあり、百能が桓武天皇の尚侍となりましたが、そのまま伸びませんでした。

 北家は房前のあと鳥養、永手、真楯、清河、魚名に分かれ、真楯の孫の冬嗣が嵯峨天皇の蔵人頭(くろうどのとう)になり、左大臣にまで昇り、その子の良房は人臣摂政の始まりであり、ついで良房の養子基経は関白となり、これより以後、代々北家から摂政、関白、太政大臣となる者が多く出て、道長のときに至りもっとも全盛を極めました。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。