| 訓読 |
1541
我(わ)が岡(をか)にさを鹿(しか)来鳴(きな)く初萩(はつはぎ)の花妻(はなづま)どひに来鳴くさを鹿
1542
我(わ)が岡(をか)の秋萩(あきはぎ)の花(はな)風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
| 意味 |
〈1541〉
我が家の岡に壮鹿が来て鳴いている。初萩の花を妻として訪ね来て鳴いている牡鹿よ。
〈1542〉
我が家の岡の秋萩の花は、風が激しいので今にも散りそうになっている。その前に来て見る人があればいいのにな。
| 鑑賞 |
大伴旅人の歌。題詞に「大宰帥大伴卿の歌二首」とあるのみで、作歌の事情は分かりませんが、大宰府時代に詠まれた歌です。1541の「我が岡」は、旅人が住んでいる岡の意で、大宰府の近くにある岡。あるいは役宅内に造られた築山と解するものもあります。「さを鹿」の「さ」は接頭語で、牡鹿のこと。「初萩」は、その秋初めて咲いた萩の花。「花妻」は、新婚時の妻の称で、初萩を鹿の妻と見たもの。鹿と萩との間に男女関係を認めるのは、鶯と梅、霍公鳥と卯の花と同様に、この時代の好尚でありました。同工の歌は多くありますが、この歌の見立てには、神亀5年(728年)に亡くなった妻大伴女郎への思いが滲んでいるとされます。
1542の「風をいたみ」の「いたみ」は、甚だしい、激しい意の形容詞「いたし」のミ語法で、風が激しいので。「散るべくなりぬ」は、今にも散ってしまいそうな状態になった、ということ。「見む人もがも」の「もがも」は願望の終助詞で、見る人があればいいのに、見る人がいてほしいなあ。前歌が初萩を採り上げたのに対し、散る萩を惜しむ気持ちを詠んでいます。
窪田空穂は、1541の歌について「落ち着いた迫らない態度を保ちつつ、美しく繊細な情趣を湛えている作で、老いた旅人の歌人としての風懐を思わせられる歌である」と言い、1542の歌について「調べも静かに、しめやかである。老いた旅人には花の散るのを惜しむ歌が多く、これもその一つである」と言っています。

筑紫歌壇
大伴旅人が大宰帥として筑紫に赴任していたのは、神亀5年(728年)春から天平2年(730年)12月までのおよそ3年間ですが、その間、小野老、山上憶良、沙弥満誓、大伴四綱、大伴坂上郎女など、錚々たる 万葉歌人も、当時の筑紫に都から赴任していました。大宰帥の大伴旅人邸には、これらの歌人が集い、あたかも中央の文壇がこぞって筑紫に移動したような、華やかなサロンを形成していたようです。
といっても、具体的な組織があったとか、各人に強い結びつきがあったとかではなく、たまたま同じ時期に大宰府に居合わせた者同士が、宴会で歌を披露したり書簡で歌のやり取りをしたりしていただけのことです。しかし、この集団は、筑紫という辺境の地において、都とは異なる独自の作歌活動を展開しました。その活動がとても特徴的だったために、「筑紫歌壇」と称されています。その特徴を一言で言うと、漢詩文と和歌の融合ということができます。その典型的なあり方が、巻第5-815~846の「梅花の歌」です。
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大宰府について
律令制下の7世紀後半、筑前国(福岡県)に置かれた役所。九州と壱岐・対馬を管理し、外敵の侵入を防ぎ、外国使節の接待などに当たりました。長官が帥(そち)で、その下に権(ごん)の帥、大弐、少弐などが置かれました。古くは「ださいふ」といい、また多くの史書では「太宰府」とも記されています。
政庁の中心の想定範囲は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされます。その面積は約25万4000㎡に及び、甲子園球場の約6.4倍にあたります。国の特別史跡に指定されています。
長官の大宰帥は従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていましたが、平安時代になると、親王が任命され実際には赴任しないケースが大半となり、次席の大宰権帥が実際の政務を取り仕切るようになりました。
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古典に親しむ
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