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巻第8(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第8-1543~1546

訓読

1543
秋の露(つゆ)は移しにありけり水鳥(みづどり)の青葉(あをば)の山の色づく見れば
1544
牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心より見る我(われ)苦(くる)し夜(よ)の更(ふ)けゆけば
1545
織女(たなばた)の袖(そで)つぐ宵(よひ)の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし
1546
妹(いも)がりと我(あ)が行く道の川しあれば付目(つくめ)結ぶと夜(よ)ぞ更(ふ)けにける

意味

〈1543〉
 秋の露は染料だったのか。青く茂っていた山が、秋の色に染まっていくのを見ると。
〈1544〉
 彦星が別れを惜しんでおられる心情もさりながら、地上で見ている私の方が心苦しくなる。年に一度の逢瀬の夜が更けてゆくので。
〈1545〉
 織女が彦星と袖を重ねて一夜を共にした宵の暁ばかりは、川瀬の鶴よ、暁を告げて鳴かなくともよい。
〈1546〉
 妻のもとへと私が行く道中には川があるので、付目を結んでいるうちに夜が更けてしまった。

鑑賞

 1543は、三原王(みはらのおおきみ)の歌。三原王は、舎人皇子の子で、淳仁天皇の兄。養老元年(717年)従四位下、天平9年(737年)弾正尹、同18年、大蔵卿、天平勝宝元年(749年)中務卿、同4年、正三位にて没。『万葉集』には、この1首のみ。「移し」は、染料のこと。正確には移し染めの材料のことで、花を一度、紙、布、綿などに染ませておいて、それで布帛を染める、その紙などのこと。ここでは、秋の露を、木の葉を紅葉させる染料に見立てています。「水鳥の」は、水鳥の鴨の羽が青いところから、「青羽」の同音で「青葉」にかかる枕詞。「青葉の山」は、青葉で覆われている山。「色づく」は、青葉が黄葉する意。

 この歌について
窪田空穂は、「山の青葉が黄葉するのを見て、女が移しを用いて物を染めるさまを連想し、秋の露は青葉にとっての移しであったのだと、驚きをもっていっているものである。美しい自然現象と人間生活の間に気分のつながりを見出だして楽しむというこの時代の新傾向の範囲のもので、その意味では特に新しいとはいえないが、『秋の露は移し』といい、『水鳥の青葉の山』という言い方が清新なために、さわやかに快い感を与えるものとなっている。魅力ある歌である」と評しています。
 
 1544・1545は、
湯原王(ゆはらのおおきみ)の七夕(しちせき)の歌。1首目で牽牛を、2首目で織女を、第三者の立場から詠んでいます。1544の「思ひますらむ」の「ます」は敬語、「らむ」は現在推量の、いずれも助動詞。「見る我苦し」は、地上で見ている自分の方が心苦しい。1545の「袖つぐ」は、衣の袖と袖を重ねる意で、共寝の婉曲的表現。「宵」と「暁」は、原文では「三更」「五更」と書かれており、「更」というのは上代の夜の時間をあらわす語で、今の2時間にあたります。初更は午後8時、二更は10時、三更は12時、四更は午前2時、五更は4時のことです。「川瀬」は、天の川の川瀬。「鳴かずともよし」は、鶴が鳴けば、別れねばならない夜明けの時なので、鳴くなということを柔らげて言ったもの。逢瀬の時間が少しでも長くあってほしいと祈った歌です。

 
湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に白壁王(光仁天皇)・春日王・海上女王らがいます。天平前期の代表的な歌人の一人で、父の端正で透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されており、家持に与えた影響も少なくないといわれます。兄弟の白壁王が聖武天皇の皇女(井上内親王)を妻として位階を進め、即位の約1年半後には、皇后や皇太子を廃して獄死させているのと比較すると、王は、人間らしい風雅の道を選んだらしくあります(本心や才能を隠しつつ政争から逃れ、一生無位だったともいわれます)。生没年未詳。『万葉集』には19首。

 
1546は、市原王(いちはらのおおきみ)の「七夕の歌」の歌で、牽牛の立場で歌っています。この歌の前の湯原王の「七夕の歌」と同じ席で詠まれた歌とされます。「妹がり」の原文は「妹許」で、妻のもとへ。「川しあれば」の「し」は、強意の副助詞。「付目」は、櫓を舷に結びつける突起した部分のことで、「付目結ぶ」は舟出の準備作業であるようです。「と」は、~しようとして。「夜ぞ更けにける」の「ぞ」は係助詞、「ける」は結びの連体形。彦星が織女のもとへ行くのが遅くなった言い訳をしており、天上の人も地上の庶民と何ら変わらないという親近感が感じられる歌です。

 
市原王は天智天皇の曾孫安貴王(あきのおおきみ)の子で、王族詩人の家系に生まれた人です。天平15年(743年)に従五位下、写経司長官、玄蕃頭、備中守、金光明寺造仏長官、大安寺造仏所長官、造東大寺司知事、治部大輔、摂津大夫、造東大寺司長官など、主に仏教関係事業の官職を歴任し正五位下に至りました。『万葉集』に8首の短歌を残し、大伴家持との関係をうかがわせる歌も多くあります。なお、父の安貴王は、大伴家持が親しく交際していた紀女郎の元の夫です。
 


律令制度の歴史

近江令
 668年、天智天皇の時代に中臣鎌足が編纂したとされるが、体系的な法典ではなく、国政改革を進めていく個別法令群の総称と考えられている。重要なのは、670年に、日本史上最初の戸籍とされる庚午年籍が作成されたことで、氏姓の基準が定められ、その後の律令制の基礎ともなった。

飛鳥浄御原令
 681年に天武天皇が律令制定を命ずる詔を発し、持統天皇の時代の689年に「令」の部分が完成・施行された。現存していないが、後の大宝律令に受け継がれる基本的な内容を含む、日本で初めての体系的な法典であったとされている。

大宝律令
 藤原不比等や刑部親王らによって701年に制定・施行された。唐の律令から強い影響を受けた日本初の「律」と「令」が揃った本格的な法典であり、奈良時代以降の中央集権国家体制を構築する上での基本的な内容が盛り込まれた。

養老律令
 大宝律令と同じく藤原不比等らにより718年から編纂が開始され、不比等の死後も編纂が続き、757年に完成・施行された。なお、律令制は平安時代の中期になるとほとんど形骸化したが、廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。