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巻第8(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第8-1555~1559

訓読

1555
秋立ちて幾日(いくか)もあらねばこの寝(ね)ぬる朝明(あさけ)の風は手本(たもと)寒しも
1556
秋田刈る仮廬(かりいほ)もいまだ壊(こほ)たねば雁(かり)が音(ね)寒し霜(しも)も置きぬがに
1557
明日香川(あすかがは)行き廻(み)る丘(をか)の秋萩(あきはぎ)は今日(けふ)降る雨に散りか過ぎなむ
1558
鶉(うづら)鳴く古(ふ)りにし里の秋萩(あきはぎ)を思ふ人どち相(あひ)見つるかも
1559
秋萩(あきはぎ)は盛(さか)り過ぐるを徒(いたづら)にかざしに挿(さ)さず帰りなむとや

意味

〈1555〉
 秋が立ってまだ幾日も経っていないのに、起き抜けのこの夜明けの風は、袂(たもと)に寒く吹いている。
〈1556〉
 秋田の田を刈り取るために作った仮小屋もまだ取り払っていないのに、早くも雁が寒々とした鳴き声を発している。霜が降りるばかりに。
〈1557〉
 飛鳥川が裾を流れる丘に咲いている萩の花は、今日降っている雨のために散ってしまわないだろうか。
〈1558〉
 寂しい古里に咲く萩の花を、気の合った人たちが集まってご一緒に眺めたことです。
〈1559〉
 萩の花が盛りを過ぎようとしているのに、むなしくそのまま髪に挿すこともなく、お帰りになるというのですか。

鑑賞

 1555は、安貴王(あきのおほきみ)の歌。安貴王は、志貴皇子の孫、市原王の父。天平元年(729年)従五位下、同17年、従五位上。紀女郎(きのいらつめ)を娶っていながら、因幡の八上采女(やがみのうねめ)と契りを結んだために、不敬罪として罰せられた人です(巻第4-534~535)。『万葉集』には4首。「秋立ちて」は、立秋を迎えて。「幾日もあらねば」は、何日も経っていないので。「朝明」は、朝明けの約。「手本」は、手首のあたり。筒袖の袖口。「寒しも」の「も」は詠嘆の終助詞。寒いことだなあ。秋の季節感を言っている歌であり、『拾遺集』には、「秋たちていくかもあらねどこの寝ぬる朝明の風は袂涼しも」として載っています。

 なお、『万葉集』には、春の到来や秋の到来を「春立つ」「秋立つ」と表現する歌が散見されます。これらは二十四節気の「立春」「立秋」から来ているともいわれますが、しかし「立夏」「立冬」に対応するはずの「夏立つ」「冬立つ」の表現は見られません。「立つ」とは、神的・霊的なものが目に見える形で現れ出ることを意味する言葉であることから、農耕生活にもっとも大切な季節とされた春と秋が、そうした霊威の現れとして意識されていたと窺えます。

 
1556は、忌部首黒麻呂(いむべのおびとくろまろ)の歌。忌部首黒麻呂は、天平宝字2年(758年)に従五位下。『万葉集』に短歌4首。「秋田刈る」は、秋の田の稲穂を刈り取る意。「仮廬」は、稲刈りのために作った仮小屋、番小屋。「いまだ壊たねば」は、まだ取り払ってもいないのに。「雁が音」は、雁の鳴き声。「霜も置きぬがに」は、まるで霜が降りてしまったかのように。「がに」は、〜のように、ほどに、ばかりに、という状態を表す接尾語。農民の立場に立って、季節の移ろいの慌しさをうたっている歌で、当時の下位の官人は農民に直に接し、またそれに近い生活をしていたと見られます。

 1557~1559は、旧都・飛鳥の
豊浦(とゆら)寺の尼が、自分の房で宴会した時の歌。豊浦寺はわが国最初の尼寺とされ、飛鳥の雷丘(いかずちのおか)の麓にありました。その私房(尼の私室)で、男も参加しての宴会が開かれました。その男というのが丹比真人国人(たじひのまひとくにひと)で、1557は国人の歌、1558・1559は、沙弥の尼たちが詠んだ歌です。国人はこのころ従五位か四位の中堅官僚で、のち、遠江守の時に、橘奈良麻呂の乱で奈良麻呂側に与したために伊豆に配流された人物です。

 
1557の「明日香川」は、奈良県高市郡の高取山に発し、雷丘と甘樫丘との間を過ぎ、藤原京の南部を斜めに横切り大和川に注ぐ川。「丘」は雷丘のことで、都が飛鳥にあった時代は尊く畏れる丘とされていましたが、旧都となったこの頃には、萩の多い丘だったとみえます。満開の萩の花を見ることができた喜びを、宴の客の立場で歌っています。1558は、それに答えた歌。「鶉鳴く」の「鶉」は、荒れた地に棲むところから「古り」にかかる枕詞。「思ふどち」は、気の合った者同士。趣味を同じくする客人を迎えて萩の花を見ることができた喜びを、主人の立場から歌っています。1559は、別れを惜しみ、客人を引き留めようとする儀礼の歌です。「徒に」は、むなしく。「かざし」は、髪刺しの略で、花や小枝を折って髪飾りにしたもの。「帰りなむとや」の「と」は、引用を表す助詞。「や」は、疑問の助詞。

 当時は「僧尼令」という法律によって、僧尼の飲酒が禁じられており、反すると30日の労役が課されたといいます。宴というからには酒肴も並んだと思われますが、ましてや男も交えての宴に、いったいどんないきさつがあったのでしょうか。ここの尼は「沙弥尼(さみに)等」とあり、正式な尼である「比丘尼(びくに)」ではなく修行中の尼だったので、そうしたことも許されていたのでしょうか。なお、宴席では、時の花を「かざしに挿す」風習があったようで、非日常的な状態に転位するための装いだったとされます。一方では男女の抱擁を意味するとの指摘もあります。
 


かざす

 「髪挿(かみさ)す」の意で、季節の霊威を宿した植物を髪に挿して、その生命力を身につけようとする呪的な行為。カザスという行為は、非日常的な空間である神事や宴の場で行われた。宴は神祭りを起源とし、宴の参加者は神に等しい位置に立つ。そこで各々カザシをすることで、神に化すと考えられていた。天平2年(730年)正月、大宰府の大伴旅人邸で開催された梅花の宴は約30人の官人たちが集まる盛大な宴であったが、その折の歌32首のうち8首に、梅の花をカザスことが詠まれている。

 カザシにする植物は、春は花が主であるのに対し、秋は黄葉である。常緑樹も用いられた。年中、緑を保つ常緑樹は、永遠性の象徴として神事に使用された。また、カザシにする花や木々を女性と重ね合わせ、「カザシにする」=女性を手に入れる、という意味を表した歌もある。

 カザシ同様、植物で作り、身に付けた物としてカヅラがある。蔓性植物を冠状に編んだもので、髪飾りにして植物に宿る霊威を身に感染させる呪具である。ちなみにカヅラは、少なくなった頭髪を補う具である「かつら」の語源である。。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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