| 訓読 |
1560
妹(いも)が目を始見(はつみ)の崎の秋萩(あきはぎ)はこの月ごろは散りこすなゆめ
1561
吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の山に伏(ふ)す鹿(しか)の妻呼ぶ声を聞くが羨(とも)しさ
| 意味 |
〈1560〉
始見(はつみ)の崎に咲いている萩の花は、この月の間は散らないでおくれ、決して。
〈1561〉
吉隠の猪養(いかい)の山をねぐらにしている鹿が、妻を呼んで鳴く声を聞くとうらやましく思われる。
| 鑑賞 |
大伴坂上郎女の「跡見(とみ)の田庄(たどころ)にして作る」歌2首。「跡見」は、奈良県桜井市外山のあたりか。「田庄」は、豪族の私有地。1560の「妹が目を」は、妹が姿を見る意で「始見」にかかる枕詞。「始見の崎」は、跡見にある山の崎、あるいは「跡見の崎」の誤りとする説もあります。「この月ごろは」は、この月の間は、か。「散りこすなゆめ」の「ゆめ」は、決して。田庄に滞在中に萩が散ってしまわないよう願う歌とされますが、「妹が目を」とある枕詞について窪田空穂は、「他にも例のあるものであるが、ここは家に残している娘を絡ませたものかと思われる。娘を思う歌があるからである」と述べています。
1561の「吉隠」は、桜井市吉隠。「猪養の山」は、吉隠の東北方の山。「伏す鹿の」の「伏す」は、伏せる、棲む意。「妻呼ぶ声」は、牡鹿が鳴くのは牝鹿を恋うて呼ぶものとして言っているもの。「羨しさ」は、うらやましく感じること。猪養の山は跡見とは数里離れているので、窪田空穂は、「吉隠の人から、何らかの形で、猪養の山は鹿の鳴くことを聞かされて、それに対して詠んだものと思われる」、また「郎女自身家を離れて旅にあるので、夫を思う心もあったものと思われる。『妻呼ぶ声』にはその心が絡んでいよう」と言っています。

『万葉集』に詠まれた鹿
万葉人が鹿に寄せる情景は非常に特徴的で、そのほとんどが「妻を恋うて鳴く声」に集中しています。深い山の中で寂しげに響く鹿の鳴き声は、万葉人にとって「孤独」「物思い」「熱烈な恋情」の最たる象徴でした。秋になると、牡鹿は雌(妻)を求めて高い声で鳴きます。万葉人はこの声を単なる自然現象としてではなく、愛する人を一途に想う自分自身の「恋の切なさ」や「孤独」と重ね合わせました。
また、『万葉集』独自の風雅な見立てとして、「牡鹿の恋人は萩(はぎ)の花」というロマンチックな設定(植物と動物の恋愛)が好んで詠まれました。鹿が萩の露を払いながら鳴く姿は、秋の美と切なさを極めた定番の組み合わせとなっています。
さらに旅先の地で一人眠れない夜を迎えた旅人にとって、夜中に響く鹿の鳴き声は、自らの寂しさを倍増させるものでした。鹿の声を「聞く」こと自体が、文学的な愁いを引き起こすトリガーとなっています。
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大伴坂上郎女の略年譜
大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |