| 訓読 |
1564
秋づけば尾花(をばな)が上に置く露(つゆ)の消(け)ぬべくも我(あ)れは思ほゆるかも
1565
我(わ)が宿(やど)の一群萩(ひとむらはぎ)を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
1566
ひさかたの雨間(あまま)もおかず雲隠(くもがく)り鳴きぞ行くなる早稲田(わさだ)雁(かり)がね
1567
雲隠(くもがく)り鳴くなる雁の行きて居(ゐ)む秋田の穂立(ほたち)繁(しげ)くし思(おも)ほゆ
1568
雨隠(あまごも)り情(こころ)いぶせみ出(い)で見れば春日(かすが)の山は色づきにけり
1569
雨晴れて清く照りたるこの月夜(つくよ)またさらにして雲なたなびき
| 意味 |
〈1564〉
秋めいてくると、尾花の上に置く露のように、私は、はかなく消えて死にそうに思われます。あなたが恋しくて
〈1565〉
私の庭に群れて咲く萩の花を、あやうく恋しい人に見せないまま、ほとんど散らしてしまうところでした。
〈1566〉
久方の雨の晴れ間も休みなく、雲に隠れては現れて鳴いていく、早稲田の雁たちが。
〈1567〉
雲に隠れて鳴いている雁が降り立つであろう秋の田の稲穂が繁っているように、あの人のことがしきりに思われる。
〈1568〉
雨にこもって心も沈んでいたが、外に出てみると、春日山はすっかり色づいている。
〈1569〉
雨が晴れて清く照り渡ったこの月に、雲よ、また更にたなびかないでくれ。
| 鑑賞 |
1564は、曰置長枝娘子(へおきのながえおとめ:伝未詳)が、大伴家持に贈った歌。1565は、家持が返した歌。1564の「秋づけば」は、秋めいてくると。「尾花」は、ススキの穂。上3句は「消」を導く譬喩式序詞。「消ぬべくも」の「消」は、序詞との関係では露の消えやすい意、下句との関係では、恋の切なさに死にそうにも、の意。「消ぬべくも我れは」は、句中に単独母音アを含む、許容すされる字余り句。秋の景物である尾花に置く露を持ち出して、恋の切なさを訴えた歌です。
1565の「宿」は、家の敷地、庭先。「一群萩」は、一群の萩の花。「ほとほとに」は、もう少しのところで。純情な娘子の恋の訴えにも関わらず、家持はもっぱら秋のあわれを言っています。婉曲に来意を促したもののようですが、あまり熱意は感じられず、詩人の大岡信は、応答の歌としては少々ピンボケ気味で、純情可憐な乙女の恋の告白も、これではちょっとかわいそうだと指摘しています。
1566~1569は、大伴家持の「秋の歌四首」。天平8年9月、家持19歳の作で、無位の内舎人(うどねり)として聖武天皇に近侍していた頃にあたります。内舎人は、天皇の国事や後宮関係の事務を司る中務省(なかつかさのしょう)に属し、帯刀して禁中の宿衛(とのい)や行幸の際の警備が主な任務とされました。家持は20代の多くの歳月を、内舎人として宮廷に仕えています。ここでは、雁、稲穂、黄葉、月が取り合わせて詠まれています。
1566の「ひさかたの」は、天を「雨」に通わせての枕詞。集中50例ある枕詞ですが、語義・掛かり方とも未詳。「雨間」は、雨の晴れ間。「鳴きぞ行くなる」は、鳴き立てて飛んでゆく。「早稲田雁がね」の「雁がね」は雁。早稲田を「刈る」とを掛けているとされますが、そうは認められないとする見方もあります。1567の「雲隠り」は、雲に隠れて。「鳴くなる」の「なる」は、推定。「行きて居む」は、行って降り立つであろう。「む」は、推量。「秋田の穂立」は、秋田の稲穂が立ち揃うさま。「繁くし」の「し」は、強意の副助詞。この歌は、坂上大嬢が家持に贈った歌(巻第8-1624)の「早稲田の穂立」を踏まえていると見られ、わけがあって離絶している大嬢への恋情が込められているものと思われます。
1568の「いぶせみ」は「いぶせし」のミ語法で、鬱々とした思いで心が晴れないので。多くは性の不満に起因する状態を示す語です。9月は5月とともに長雨の月ですが、稲作にとっては大切な、神の来臨を迎える聖なる月とされていました。人々は物忌みのため家に籠り、男女関係も原則ご法度とされていたのです。それを古来「雨隠り」と呼んでいました。「春日山」は、奈良市東方の山並み。1569の「雲なたなびき」の「な」は、禁止。雨隠りを強いられていた長雨が上がり、さやかに照る月を詠むことによって、以上4首の結びとしています。

『万葉集』の字余り句
和歌(短歌)は、5・7・5・7・7の31文字を定型としますが、5文字が6文字に、7文字が8文字に超過する句がある場合は「字余り」と呼ばれます。近代以降の和歌にも字余りを詠みこむ例がありますが、それらの字余りに特段の法則があるわけではありません。しかし、『万葉集』など古代の字余りには一定の法則が認められ、それを発見したのは、江戸時代後期の国学者、本居宣長です。すなわち、句中に「あ・い・う・え・お」のいずれかの単独母音を含むと字余りをきたすというものです。上の歌(1564)でいえば、第4句の途中に母音アを含む8文字の字余りになっています。この場合、アが準不足音句になるので、7音節と見るのです。
もっとも、句中に母音音句を含めば、すべてが字余りになるかというとそうではなく、非字余りの句も存在します。また、従来、母音音句を含まず字余りで訓まれてきたものを、諸氏の本文批判や訓法によって5・7文字に改訓されてきた中にあって、母音音句を含まずに字余りと認められるものも僅かながら存在しています。
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ながめ(長雨)
「ながあめ」の約で、何日も降り続く雨のこと。『万葉集』では、「長雨」「霖雨」と表記される。「長雨」の月は陰暦五月と九月で、どちらも稲作にとって大切な、神の来臨を迎える聖なる月とされた。そこで、男女は物忌みのために家に隠(こも)り、互いに逢わないのを原則とした。これを、古来「長雨忌(ながめい)み」「雨隠(あまごも)り」と称する。そもそも、雨に濡れること自体が禁忌とされたため、現実にも男は女のもとを訪れることはできない。そこで、「長雨」を詠み込む歌には、性的な不満足に起因する鬱陶しい気分を歌うものが多い。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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