| 訓読 |
1574
雲の上に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ
1575
雲の上に鳴きつる雁(かり)の寒きなへ萩(はぎ)の下葉(したば)はもみちぬるかも
1576
この岡に小鹿(をしか)踏(ふ)み起(おこ)しうかねらひかもかもすらく君(きみ)ゆゑにこそ
1577
秋の野の尾花(をばな)が末(うれ)を押しなべて来(こ)しくも著(しる)く逢へる君かも
1578
今朝(けさ)鳴きて行きし雁(かり)が音(ね)寒(さむ)みかもこの野の浅茅(あさぢ)色づきにける
1579
朝戸(あさと)開けて物思(ものも)ふ時に白露の置ける秋萩(あきはぎ)見えつつもとな
1580
さを鹿(しか)の来(き)立ち鳴く野の秋萩(あきはぎ)は露霜(つゆしも)負(お)ひて散りにしものを
| 意味 |
〈1574〉
雲の上で鳴いている雁のように、遠いところに住んでいる私ですが、あなた様にお会いしたいと、巡り巡ってやって参りました。
〈1575〉
雲の上で鳴いている雁の声が寒々と聞こえますが、折も折、この庭の萩の下葉はすっかり色づいていますね。
〈1576〉
この岡で鹿を追い立てて狙うように、あれこれ心を尽くすのは、あなた様を思ってのことです。
〈1577〉
秋の野のススキの穂先を押し伏せてやってきた甲斐があって、あなた様にお会いできました。
〈1578〉
今朝鳴いて飛んでいった雁の鳴き声が寒々としていたせいか、この野の浅茅も色づいてきました。
〈1579〉
朝の戸を開けて物思う時、白露が降りた萩の美しくあわれな風情が目について仕方がありません。
〈1580〉
雄鹿がやって来てしきりに鳴いている野の萩は、露霜を浴びてすっかり散ってしまったではありませんか。
| 鑑賞 |
天平10年(738年)8月20日、右大臣橘家で行われた宴の歌7首。宴が行われたのは、橘諸兄の別邸で、奈良京から離れた井手(京都府綴喜郡)にありました。川に面しており、その水を導き入れた庭園は花で埋め尽くされていたといいます。1574・1576について、作者名が記されていませんが、1574が主賓である高橋安麻呂の挨拶の歌で、1575が宴の主人の諸兄が答えた歌ではないかとされます。高橋安麻呂は、養老2年(718年)従五位下、宮内少輔、宮内大輔を歴任、神亀元年(724年)、蝦夷(えみし)の蜂起に際し征夷副将軍に任じられ、天平4年(732年)右中弁となり、のち右大弁に進み大宰大弐を兼ねた人。最終官位は従四位下。
1574の上2句は、意味で「遠けども」を導く序詞。「た廻り」の「た」は接頭語。あちこち巡って。1575の「なへ」は、とともに、につれて。「下葉」は、木の下の方の葉。「もみつ」は、紅葉する。「かも」は、詠嘆。前歌の上2句を受けて、秋の花鳥の取り合わせとして「雁」に対する「萩」のもみじがちょうど見頃になっていることを告げています。あるいはこの歌も高橋安麻呂の作ではないかとの見方もあります。窪田空穂は、「安らかで、品のある歌」と評しています。
1576は、長門国守の巨曽倍対馬朝臣の歌。「小鹿」の「小」は、美称。「踏み起し」は、足を踏み鳴らして雄鹿を追い立てて。「うかねらひ」は、獲物を窺い狙って。「かもかも」は、あれこれ、ああもこうも。「すらく」は「する」のク語法で名詞形。「君ゆゑにこそ」の「君」は、橘諸兄のこと。「こそ」の下に「あれ」の語が省略されています。上3句は、宴の前に行われた狩猟のようすを採り入れて、主人を讃えたものと見えます。
1577・1578は、阿倍朝臣虫麻呂(あべのあそみむしまろ)の歌。安倍朝臣虫麻呂は、坂上郎女の従兄弟で、天平9年(737年)外従五位下。皇后宮亮、中宮少進、中務少輔などを歴任した人。『万葉集』には6首。1577の「尾花が末」は、ススキの穂の先端。「押しなべて」は、押し伏せて。「来しく」は「来し」のク語法で名詞形。「著く」は、その甲斐が著しく。「君」は、橘諸兄。1578の「寒みかも」は、寒いせいか。「かも」は、疑問。「浅茅」は、丈の低いチガヤ。「色づきにける」の「ける」は、気づきの「けり」の連体形で「かも」の結び。
1579・1580は、文忌寸馬養(ふみのいみきうまかい)の歌。馬養の父・文忌寸禰麻呂は『日本書紀』『続日本紀』には書首根麻呂(ふみのねまろ)として登場、渡来系氏族の西文氏(かわちのふみし)の後裔であり、大和政権の書記官的な任に就いていましたが、武人として頭角をあらわし、壬申の乱では大海人皇子を助けて活躍しました。霊亀2年(716年)、馬養は父の功によって田を賜り、筑後守などを経て天平宝字2年(758年)には従五位下にまで昇進しました。『万葉集』には、ここの2首のみ。2首とも、宴席での歌ではなく、邸で一夜を明かしての朝の歌です。当時の宴が夜を徹して行うものとされたのは、宴は神祭りを起源とし、神の時間は夜とされたからです。1579の「朝戸」は、本来は、男女が共寝した翌朝、男を送り出すために開ける戸の意ですが、ここは宴の別れの意を含んだものと見えます。「もとな」は、わけもなく、しきりに。1580の「露霜」は、冷たい露。「負ひて」は、浴びて、帯びて。「を」は、詠嘆。
宴には原則として主人と正客(主賓)とがあり、他の客は正客のいわばお相伴にあずかるような形で行われました。またその次第も、最初に主人が挨拶の言葉を述べ、正客が招待への謝意をあらわす。酒杯を取り交わす際にも、各人の挨拶が求められる。宴が果てると、もてなしへの礼と辞去の言葉が正客から、また引き留めの言葉が主人から述べられる。さらに、そうした挨拶には、歌を伴う、というものでした。

位階制
古代の官人の位階制は、603年に冠位十二階の制度が定められ、官人に対して冠を与えたのが初めとされます。「冠位」制度はその後数回の変遷を経て、大宝元年(701年)の大宝令および養老2年(718年)の養老令により「位階」制度として整備されました。それにより、一位から八位までの下に初位が置かれ、一~三位は正・従、四~八位は正・従それぞれが上・下、初位は大・少それぞれが上・下に分けられていました。官人たちは、その位階に応じた官職を与えられ(官位相当制)、また、礼服・朝服は位階に応じて色等が定められました。
官人の昇進は通常「考」と呼ばれる勤務評定によりましたが、軍功や貢物の献上などの功績によって叙位がなされることもありました。また、五位以上の子、三位以上の子および孫は、父祖の位階に応じて一定の位階に叙し任用されました(蔭位:おんい)。他の任用法である国家試験による出身にくらべて初叙の年齢・位階のいずれにおいても優位にあり、上層官人の特権でした。位階制は、そもそもは官職の世襲を排して適材適所の人材登用を進めることを目的とした制度でしたが、この特権があるために当初からその目的は達成困難なものでした。
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平安時代に『万葉集』の解読作業が始まった理由
平安時代になって平仮名が生まれ、日本の文学作品は平仮名を使って書かれるようになって発展したと言われています。そしてこの時代には、2世紀前に成立した『万葉集』は、すでに訓むことが困難になっていました。その解読の作業が始められたのは、村上天皇の勅命によってであり、第二の勅撰和歌集である『後撰和歌集』の撰者5人(大中臣能宣伝・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城)が、後宮の昭陽舎(通称梨壺)において、新しい勅撰和歌集を撰進することと同時に命じられ、作業を進めることになったのです。その時になされた訓読の結果を「古点(こてん)」と呼びますが、そのまま現在に伝わっているわけではなく、「桂本」などの平安時代に書写された『万葉集』のなかに一部痕跡として残っているにすぎません。
実は、この解読作業が始まったのは、村上天皇の女御であった広幡御息所(ひろはたのみやすどころ)という女性の発意によるとされます。当時の女性たちは漢字が読めなかった、あるいは読めてもそれを隠さなければならなかったという風潮がありました。ところが、『古今集』の序文において『万葉集』が重要な歌集として位置づけられたために、和歌を詠む人たちにとって『万葉集』をよむことが必須とされるようになりました。『枕草子』に「集は古万集。古今」とあることからも分かります。しかし、万葉仮名で書かれている『万葉集』は、漢字で書かれているも同様でしたから、漢字が読めない素振りをしなければならなかった女性たちは表立って鑑賞することができません。それは不都合、というわけで、とくに和歌を詠む女性たちのために始められたのが、この解読作業だったというのです。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |