| 訓読 |
1586
黄葉(もみちば)を散らまく惜(を)しみ手折(たを)り来て今夜かざしつ何か思はむ
1587
あしひきの山の黄葉(もみちば)今夜(こよひ)もか浮かび行くらむ山川(やまがは)の瀬に
1588
奈良山をにほはす黄葉(もみち)手折(たを)り来て今夜(こよひ)かざしつ散らば散るとも
1589
露霜(つゆしも)にあへる黄葉(もみち)を手折(たを)り来て妹(いも)とかざしつ後(のち)は散るとも
1590
十月(かみなづき)時雨(しぐれ)にあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに
1591
黄葉(もみちば)の過ぎまく惜(を)しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか
| 意味 |
〈1586〉
黄葉が散るのを惜しみ、手折ってきて今夜かざしにしました。もう思い残すことはありません。
〈1587〉
この山の黄葉は、今夜もまた、はらはら散っては浮かんでいくことだろうか、この山川の瀬に。
〈1588〉
奈良山を彩る黄葉を手折ってきて、今夜かざしにしました。もう散るなら散っても構わない。
〈1589〉
露霜に当たって深く染まった黄葉を手折ってきて、妹とともにかざした。この後は散っても構わない。
〈1590〉
十月の時雨にあった黄葉は、風が吹けば、風の吹くままに散ってしまうことだろう。
〈1591〉
黄葉が散ってゆくのを惜しんで、気の合う者同士で遊ぶ今夜は、このまま明けずにいてくれないものか。
| 鑑賞 |
天平10年(738年)10月17日、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が宴会を催したときの歌11首のうちの後半の6首。作者は、1586が県犬養宿祢持男(あがたのいぬかいのすくねもちお)、1587が大伴宿祢書持(おおとものすくねふみもち)、1588が三手代人名(みてしろのひとな:伝未詳)、1589が秦許遍麻呂(はたのこへまろ:伝未詳)、1590が大伴宿祢池主(おおとものすくねいけぬし)、1591が内舎人の大伴宿祢家持。
1586の「散らまく惜しみ」の「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形、「惜しみ」は「惜し」のミ語法。散ることが惜しいので。「今夜かざしつ」は、今夜、髪(または冠)に飾った。「つ」は完了の助動詞で、動作がしっかりと完了したことを表します。「何か思はむ」は、何を思うことがあろうか、思い残すことはない。作者の県犬養宿祢持男は伝未詳ながら、1585の作者の吉男の近親者か。
1587の「あしひきの」は、山の枕詞。1586の歌から、谷川に流れるもみじの現在を連想しており、宴歌11首中、手折ったもみじではなく、唯一あるがままのもみじを詠んだ歌になっています。作者の大伴書持は、家持の異母弟(生年不明)。この歌について、斎藤茂吉は次のように言っています。「皆黄葉(もみじ)を内容としているが書持の歌い方が稍やや趣(おもむき)を異(こと)にし、夜なかに川瀬に黄葉の流れてゆく写象を心に浮べて、『今夜こよひもか浮びゆくらむ』と詠歎している。ほかの人々の歌に比して、技巧の足りない稚拙(ちせつ)のようなところがあって、何時(いつ)か私の心を牽(ひ)いたものだが、今読んで見ても幾分象徴詩的なところがあっておもしろい。また所謂(いわゆる)万葉的常套(じょうとう)を脱しているのも注意せらるべく、万葉末期の、次の時代への移行型のようなものかも知れぬが、そういう種類の一つとして私は愛惜している。そして天平十年が家持二十一歳だとせば、書持はまだ二十歳にならぬ頃に作った歌ということになる」
1588の「にほはす」は、美しい色に染める意。「手折り」とあるのは、参加した客人らももみじを手折りつつ来たと見えます。「散らば散るとも」は、下に「よし」などの語を省略しています。1589の「露霜」は、冷たい露。「あへる黄葉を」は、露や霜に打たれて、いっそう鮮やかに色づいた(あるいは、今にも散りそうな)紅葉を指します。「妹」は、上の久米女王、長忌寸の娘を指しているものと思われます。「後は散るとも」は、この後に「よし」などの語が省略されていて、あとのことはどうなっても構わないという強い意志が示されています。
1590の「まにまに」は、なりゆきに任せて。作者の大伴池主は、天平18年(746年)家持が越中守となった時、その掾(じょう:国司の第3等官)であった人。後に越中掾に転じ、さらに中央官として都に帰っています。記録の上では、家持との交流は20年に及び、さらに少年期にまで遡れば、2人は30年来の知己だったのではないかともいわれます。しかし、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わって捕縛され、その後の消息が分からなくなっています。『万葉集』には29首の歌を残しており、勅撰歌人として『新勅撰和歌集』にも1首入集。漢詩もよくし、その才能は家持を上回っていたともいわれます。
1591の「過ぎまく」は「過ぎむ」のク語法で名詞形。「思ふどち」は、互いに思い合う同士。「明けずもあらぬか」の「ぬか」は、希求の意。今夜の明けないことを願い、思うどちが遊ぶ楽しさを強調しています。ここの歌は、家持が内舎人の肩書きで登場する初めての歌です。内舎人は天皇の国事や後宮関係の事務を掌る中務省に属し、帯刀しての禁中での宿直(とのい)や行幸における駕行の護衛などが主な任務であり、家持は20代の多くの歳月を内舎人として宮廷に仕えました。またこの宴への参加は、家持にとって右大臣橘諸兄・奈良麻呂父子と共通の政治的な立場を選択する交流行動となりました。橘諸兄との政治的「出会い」こそが、家持のその後の人生にとって決定的な意味を持つことになります。

橘奈良麻呂
橘諸兄の子。母は藤原不比等の娘多比能。室は大原真人明娘で、子に島田麻呂、清友、安麻呂、入居らがいる。天平8年(736年)父、叔父の佐為王らとともに橘宿禰 の姓を賜わる。同12年従五位下、天平勝宝6年(754年)正四位下、次いで兵部卿、天平宝字元年(757年)右大弁となった。同年6月から7月にかけて、大伴氏、佐伯氏などと結び、権臣藤原仲麻呂を除き、皇太子大炊王を廃し、黄文王を立てようとの企てが、山背王、上道臣斐太都(ひだつ)らにより相次いで密告され、ついに誅せられたとも、流されたともいう。のち承和14年(847年)年10月、太政大臣正一位を追贈された。この贈位は仁明天皇の生母橘嘉智子の縁によるとされる。『万葉集』に短歌3首所載。
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