| 訓読 |
1592
しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田廬(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ
1593
隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ時雨(しぐれ)の雨は降りにけらしも
1594
時雨(しぐれ)の雨(あめ)間(ま)なくな降りそ紅(くれなゐ)ににほへる山の散らまく惜(を)しも
| 意味 |
〈1592〉
わずかばかりの五百代の田を、慣れない手つきでうまく刈れずに番小屋にいると、都のことが思い出される。
〈1593〉
泊瀬の山は色づいてきたところです。山ではもう時雨が降ったのでしょうね。
〈1594〉
しぐれ雨よ、そんなに絶え間なく降らないでくれ。紅に色づいた山の紅葉が散ってしまうのが惜しいではないか。
| 鑑賞 |
1592・1593は、天平11年(739年)9月、大伴坂上郎女が、竹田の庄で作った歌2首。「竹田の庄」は、大伴氏が有していた荘園の一つで、奈良県橿原市東竹田町、耳成山の北東の地にあったとされます。ふだんは都の邸宅に住んでいるので、管理人を置いて日常の管理をさせ、春の作付けと秋の収穫には出向いて立ち会ったのです。この時は秋の収穫時で、実際に自身が稲刈りしたかどうかは分かりませんが、使用している農民の監督方々、当地に寝泊りしたのは事実のようです。巻第8-1619~1620には、その郎女のもとを、家持が訪ねた時の歌が載っています。
1592の「しかとあらぬ」は、さほどでもない、たいしたことない。「五百代」は、田の面積を表しており、1町(約1ヘクタール)の広さ。貴族の荘園としては確かに広くありませんが、あるいは郎女の謙遜かもしれません。「刈り乱り」は、刈り散らして。刈り取られた稲が稲藁ごと田に乱雑に寝かされている状態を言ったものか。「田廬」は、番小屋、仮小屋のこと。ただし、郎女が実際に仮小屋に住んでいたわけではなく、田庄に設けられた別宅を謙遜して言ったものと見られます。
1593の「隠口の」は、奥まった所の意とも、霊魂のこもる所の意とも言われ、「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、竹田の庄から東に見える三輪山や巻向山。「時雨」は、晩秋から初冬にかけて降る小雨。「降りにけらしも」の「けらし」は、過去の事柄の根拠に基づく推定。「も」は、詠嘆。当時の人々は、時雨によって紅葉の色が増すと考えていました。
窪田空穂は、1592について「『田廬』などという語は、『京肺』との対比からいっているもので、もとより誇張があろうが、熟しきった、おちついた語となっていて、郎女の力量を思わせるものである」と述べ、1593について「竹田庄にあって、その辺りの高山である泊瀬の山を望んで、山が黄葉しはじめたのを発見した心である。季節感をいったにすぎない歌であるが、おちついた、老熟した歌で、艶を失っていないところに趣がある」と述べています。
1594は、作者未詳歌。左注に「冬十月(天平11年10月)、皇后の宮(光明皇后)の維摩講(ゆいまこう)の結願の日に、大唐・高麗等の種々の音楽を供養し、そのときこの歌を歌った。琴を弾いたのは市原王(いちはらのおおきみ)、忍坂王(おさかのおおきみ:後に姓(かばね)大原真人赤麻呂を賜わった〉、歌子(歌い手)は田口朝臣家守(たぐちのあそみやかもり)、河辺朝臣東人(かわへのあそみあずまひと)、置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)など十数人だった」旨の記載があります。
維摩講は、維摩経を講ずる法会のこと。藤原鎌足が始めたもので、死後30年間絶えていたのを不比等が再興し、天平5年(733年)以降、毎年10月10日から16日まで興福寺で行われました。ここは、光明皇后の祖父・藤原鎌足の70周忌の供養のため、皇后宮で営まれたもの。維摩経は、維摩羅詰(維摩居士)の教理を記した経典で、維摩経を講ずるのは僧侶ですが、この唱歌が琴にあわせて歌子(うたびと)の十数人によって唱われたようです。和歌が仏教にも取り入れられたという、文化的な発展が窺えます。
「間なくな降りそ」は、絶え間なく降らないでくれ。「な~そ」は、懇願的禁止。「紅ににほへる山」は、紅葉に照り映えている山。『万葉集』における「にほふ」は、香りではなく、色が鮮やかに映える、美しく輝くといった視覚的な美しさを指します。ここは鎌足の人生を象徴した表現です。「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。「惜しも」の「も」は、詠嘆の終助詞。

各巻の主な作者
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