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巻第8(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第8-1636~1638

訓読

1636
大口(おほくち)の真神(まがみ)の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
1637
はだすすき尾花(をばな)逆葺(さかふ)き黒木もち造れる室(むろ)は万代(よろづよ)までに
1638
あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座(ま)せど飽かぬかも

意味

〈1636〉
 真神の原に降っている雪よ、そんなにひどく降らないでほしい。ここに我が家はないのだから。
〈1637〉
 はだすすきや尾花を逆さにして屋根を葺き、黒木で造った新室(にいむろ)は、万代の後まで栄えることであろう。
〈1638〉
 奈良の山で取れた黒木で造ったこの室は、いつまでも座っていて飽きることがない。

鑑賞

 1636は、舎人娘子(とねりのおとめ)の歌。舎人娘子は伝未詳ながら、舎人皇子の傅(ふ)だった舎人氏の娘ではないかともいわれます。舎人氏は帰化人の末とされます。巻第2-117~118に舎人皇子との贈答歌があります。

 「大口の」は、口が大きい意で、狼を真神と称したところから「真神」の枕詞。「真神の原」は、明日香村にある飛鳥寺の南方に広がる田畑。当時は狼が大口を開けて吠えているような荒涼とした原野だったのでしょう。「いたくな降りそ」の「いたく」は、ひどく、「な~そ」は、懇願的な禁止。「あらなくに」の「あらなく」は「あらぬ」のク語法で名詞形。ないことだのに。人家のない真神の原を通っていて、折から降ってきた雪に呼びかけているとみられ、進みあぐねている、あるいは立ち往生している様子が目に浮かびます。修辞を用いず率直な歌ですが、あるいは誰かに贈った歌ではないかともいわれ、真神原を通って帰る恋人を気遣って詠んだものかもしれません。

 なお、
土屋文明は、この舎人娘子について次のように評しています。「巻一に大宝二年に三河国に行幸の時の歌があり、・・・力量ある詠風を示して居る。さう言えば巻二に皇子に和へる歌も幾分皇子を圧倒して居る観がある。殊に巻八の歌は一首に感動が溢れて居て、意吉麿の『苦しくもふり来る雨か神の崎狭野のわたりに家もあらなくに』(265)との前後は知り難いけれども、歌は寧ろ立ち勝って居るやうに感ぜられる。巻二、巻四に見える舎人吉年は女性であって、その歌は注意されるべきものであるが、事によったら、この舎人娘子と記されてあるのと同一人ではないかと私は想像して居る」

 
1637は、「太上天皇(おほきすめらみこと)の御製歌」。太上天皇は、譲位された天皇(上皇)の称号で、ここは44代元正天皇を指します。左注に「聞くところによると、太上天皇が左大臣長屋王の佐保の宅におでましになり、宴を催されたときの御歌だという」とあります。長屋王の佐保の宅は「作宝楼(さほろう)」とも称され、ここでしばしば詩歌の宴が催され、また迎賓館としても用いられたといいます。

 「はだすすき」はまだ穂が出ていない薄(すすき)のことで、「尾花」の枕詞。「尾花」は、穂を出した薄。「逆葺き」とあるのは、ふつう薄で屋根を葺くには根に近いほうを下に向けるのを、反対に穂のほうを下に向けて葺いてあったもの。風流を演出したのでしょうか。「黒木」は、皮のついたままの木材。「造れる室」は、天皇の行幸を仰ぐために特に造った御座所。天皇は、その室を通して長屋王の家に対しての賀の気持ちを詠んでおり、女性的な細やかな目で風流の計らいをとらえています。

 
元正天皇は、父・草壁皇子(天武天皇の子)と母・元明天皇の長女にあたります。名は氷高(ひだか)皇女といい、和銅7年(714年)年9月に母の譲位を受けて36歳で即位することになります。このとき、元明天皇は譲位の際の詔で「この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯(よわい)幼く稚(わか)くして深宮を離れず」と言っていますが、皇太子の首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)はこの年15歳、父・文武天皇は同じ15歳で即位しましたから、これは理由にはなりません。一般には、高齢ながら天武帝の皇子たちが何人か残っていて、それらの勢力や貴族の反発を回避するために首皇子の即位を見送ったと説明されます。即位した元正天皇はこの時36歳で未婚。なぜ未婚だったかは不明ですが、元来控えめで思慮深い性格だったらしく、母の元明天皇はこの娘を「沈静婉孌(ちんせいえんれん)」(物静かで美しい)と褒め、また『続日本紀』には「神識沈深(しんしきちんしん)にして、言(こと)必ず典礼あり」(見識が深く、落ち着いていて、言動はつねに礼法にかなっている)と伝えています。その治世前半は、母上皇と藤原不比等が政権を担い、二人の死後は長屋王が担当しました。

 
1638は、共に招かれた45代聖武天皇の御製歌。「あをによし」は「奈良」の枕詞。「あをに」は、青土(あをに)の意。奈良坂から上質の青土を産したので掛けたといわれます。「奈良の山なる」は、奈良の山にある。奈良の山は、奈良市北部の小高い丘陵地で、長屋王の邸の近く。「座せど飽かぬかも」の「座す」は、自敬表現。いずれも室を通しての挨拶歌であり、太上天皇は、主人の長屋王のほうに重点を置いて詠んでおり、天皇は専ら自身のことを述べているものです。
 


『続日本紀』

 『日本書紀』に次いで編修された勅撰国史で、六国史の第2番目。全40巻からなり、光仁天皇の命によって石川名足(いしかわのなたり)・淡海三船(おうみのみふね)らが撰修をはじめ、藤原継縄(ふじわらのつぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに撰進事業が継承され、延暦16年(797年)に奏上されました。『日本書紀』のあとを受けて、文武天皇即位の年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)12月まで、9代・95年間の国の歴史を、編年体、漢文で記載しています。藤原仲麻呂(恵美押勝)、道鏡、鑑真などの伝記も記載されています。

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万葉時代の天皇

第33代 推古天皇 592~628年
第34代 舒明天皇 629~641年
第35代 皇極天皇 642~645年
第36代 孝徳天皇 645~654年
第37代 斉明天皇(皇極天皇が重祚) 655~661年
第38代 天智天皇 668~671年
第39代 弘文天皇 671~672年
第40代 天武天皇 673~686年
第41代 持統天皇 690~697年
第42代 文武天皇 697~707年
第43代 元明天皇 707~715年
第44代 元正天皇 715~724年
第45代 聖武天皇 724~749年
第46代 孝謙天皇 749~758年
第47代 淳仁天皇 758~764年
 


(元正天皇)

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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。