| 訓読 |
1650
池の辺(へ)の松の末葉(うらば)に降る雪は五百重(いほへ)降り敷(し)け明日(あす)さへも見む
1651
沫雪(あわゆき)のこのころ継(つ)ぎてかく降らば梅の初花(はつはな)散りか過ぎなむ
1654
松蔭(まつかげ)の浅茅(あさぢ)の上の白雪(しらゆき)を消(け)たずて置かむことはかもなき
1656
酒杯(さかづき)に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後(のち)は散りぬともよし
1657
官(つかさ)にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
| 意味 |
〈1650〉
池のほとりの松の梢に降る雪は、幾重にも降り積もれ。明日もまた見よう。
〈1651〉
淡雪がこの頃のように降り続いていると、せっかく咲いた梅の花も散ってしまうのではなかろうか。
〈1654〉
松の木陰の浅茅の上にある白雪を、消さずにそのまま残しておく手立てがないものだろうか。
〈1656〉
盃(さかづき)に梅の花を浮かべ、気心の知れた仲間と飲み交わした後ならば、梅の花は散ってもかまわない。
〈1657〉
お役所は許してくださった。これなら今夜だけの飲酒とは限らない。梅花よ、次の宴まで決して散らないでおくれ。
| 鑑賞 |
1650は、題詞に「西の池に御在(いま)して肆宴(とよのあかり)したまふときの歌一首」とある歌。「西の池」は、平城京の内裏、今の佐紀池付近にあった池。「御在して」は、天皇がお出ましになって。「肆宴」は、豊(とよ)の明かりの意で、天皇が臨席される宴。「松の末葉」は、松の枝先の葉。「五百重」は、幾重にも重なるさま。「降り敷け」は、命令形。宴の賀歌として誦詠された歌で、長寿の象徴である松の木に、豊穣の吉祥としての雪が積もる情景を、今宵だけでなく明日も見ようと讃えています。
窪田空穂は、「眼前に降っている雪の美観を褒めた歌で、印象の鮮明な歌である。『松の末葉に零る雪』といっているのは、いささか降る雪が、松の葉の色と雪の色との対照によって目にとまる意で、巧みである。『五百重零りしけ』は、美観に飽かない心である。『零る雪は』『零りしけ』と重ねたのも働きがある。一首として、印象の鮮明な上に、豊かさがあり、余裕もあって手腕ある人の作である」と評しています。
左注には「右の一首は、作者未だ詳ならず。ただし、竪子(ちひさわらは)阿倍朝臣虫麻呂(あへのあそみむしまろ)の之を伝へて誦(よ)める」とあり、「竪子」は、天皇の身辺を警護し、宮中の雑務に当たった令制外の役人のこと。「竪」は童子の意ですが、内舎人と同様に、貴族の子弟が出世の過程としてこの職に就きました。阿倍朝臣虫麻呂は、大伴坂上郎女の従兄弟。『万葉集』には5首の作歌がありますが、ここの歌は、本人の作ではなく、その場合にふさわしい賀歌として誦した古歌とされます。
1651・1654・1656は、大伴坂上郎女の歌。1651の「沫雪」は、はらはらと降る泡状の雪。「このころ継ぎて」は、この頃のように続いて、今しばらく続いて。「かく降らば」は、このように降るので。「散りか過ぎなむ」の「か」は疑問、「な」は強意、「む」は推量。散ってしまうのではなかろうか。1649の家持の歌では、雪と競うように咲いた梅が祝福されましたが、本歌では同じ雪が一転して、梅を脅かす存在として描かれており、誕生したばかりの美の脆弱性が主題となっています。「初花」の語が効果的であり、満開の花ではなく、ようやく咲き始めた段階だからこそ、雪の重みや冷えに耐えきれず散ってしまうかもしれない、という切実な不安が表明されています。
1654は、わずかに残っている雪に心を留めた歌。「浅茅」は、丈の低い茅(ちがや)。「消たずて」は、他動詞「消つ」の未然形「消た」に打消の助動詞「ず」がついたもの。「かもなき」の「か」は疑問、「も」は詠嘆、「なき」は「か」の係り結びで連体形。ないものだろうか。雪を題材とする一連の歌群の中でも、自然のはかなさを端的に言語化した作品の一つです。梅との取り合わせや恋情の表出とは異なり、ここでは雪そのものの運命、すなわち、消えゆくことの必然が静かに見据えられています。情に流されず、しかし冷たくもない、節度ある無常観がよく表れた一首といえます。窪田空穂は「消え残った雪と説明せず、具体的に描いて暗示しているところに味わいがある」「郎女の鋭敏な感性のあらわれている歌である」と評しています。
1656について、天平4年(732年)に禁酒令が出され、左注に、お役所からの禁制で、「都や村里で集まって宴を催してはならない。ただし、親しい者同士が一、二人と飲んで楽しむことは許す」というので、この歌を作ったとあります。禁酒令の例外だとばかりに親族が集まって、酒宴を開いたようです。「思ふどち」は、親しい者同士の意。「散りぬともよし」という句は、巻第5-821や巻第6-1011などにも見え、当時流行した詩句だったかもしれません。1657は、これに答えた作者未詳歌。「飲まむ酒かも」の「かも」は反語で、今夜だけ飲む酒であろうか、そんなことはない。
作家の吉川英治は、郎女の1656の歌を評し、「何か心象に沁みてくるような香があってわすれられない。王朝自由主義の中の明るい女性たちが、男どちと打ち交じって、杯を唇にあてている姿が目に見えるようだ」と言っています。また、大伴旅人の大宰府での梅花の宴歌の影響が大きく、旅人死去(天平3年)の後の宴であることから、旅人を思慕しての作であろうとも言われます。
この時代、禁酒令は何度か公布されており、その目的は、集会を禁止し、無用な政治批判を抑えるためだったとされます。この時の禁酒令はかなり厳しかったようで、王公以下に適用され、罰則は五位以上は1年間の給与停止、六位以下は免職、それ以外の者は杖で80叩きだったといいます。

律令政治の展開
律令国家は、大化の改新から50余年にわたる経験をいかし、公地公民の制度を実現しようとしました。全国の耕地が区分けされ、6年ごとに戸籍が改められ、6歳以上の男女に口分田が与えられました。口分田は一生の間、耕作を認められましたが、売買は禁止され、死後は国家に返す決まりになっていました(班田収授法)。
口分田を支給された公民は、租・調・庸という税を課されました。税の内容はかなり厳しいものでしたが、多数の農民に一様に田地を分け与え、豪族の任意とされていたまちまちの税額を全国的に一律に定めたことは、国民にとって公正の前進を意味していました。ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、人口の1割弱だった賤民は差別されていました。とくに賤民のうち奴婢(ぬひ)とよばれる人々は、所有者の財産として扱われたのです。
政治については、中央の役人が国司として地方に派遣され、そのもとで地方の豪族が郡司として起用されました。中央と地方を結ぶ主要道路には駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意されていました。奈良時代の日本の人口は約600万人で、そのうち平城京の人口は約10万人、官僚が約1万人いて、うち貴族は200人ほどだったといいます。
聖武天皇の治世(724~749年)になると、疫病や天災が頻繁に起こり、土地を離れ逃亡する農民も増えてきました。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国の統治が及ばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地の私有を認めました。この法律は人々の開墾への意欲をかきたて、水田の拡大につながりました。しかし、有力な貴族や寺院、地方豪族などが逃亡農民などを使って私有地を拡大したため、班田収授法はしだいに厳格には行われなくなりました。
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