| 訓読 |
夕されば小倉(をぐら)の山に伏(ふ)す鹿の今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも
| 意味 |
夕暮れになると小倉の山に伏す鹿は、今夜は鳴かずに寝てしまったようだ。
| 鑑賞 |
巻第9の冒頭の歌であり、題詞に「泊瀬(はつせ)の朝倉の宮に天(あめ)の下知らしめす大泊瀬幼武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと)の御製歌一首」とあります。「泊瀬の朝倉の宮」は、奈良県桜井市朝倉付近にあった第21代雄略天皇の皇居。「大泊瀬幼武天皇」は、雄略天皇のことで、『古事記』には大長谷若建命と記され、歌によって治世を推し進めた天皇として造型されています。埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣にある銘文中の「獲加多支鹵大王」によって「幼武」をワカタケルと訓むものです。
「夕されば」は、夕方になるといつも。「小倉の山」の所在には様々な説があり、一説には桜井市の今井谷あたりといわれています。「伏す鹿」は、小倉の山をねぐらにして伏すのを習慣にしている鹿」の意。「伏す鹿の」の原文「臥鹿之」を「伏す鹿し」と訓み、「し」を強意の副助詞とする説もあります。「けらし」は、ケルラシの約で、過去推量。「も」は、詠嘆。万葉時代の人々は、他のいくつかの歌を検証すれば、妻を求めて鹿は鳴くと理解していたことが分かります。とすれば、鹿が鳴かないのを歌ったこの歌は、ああ、妻が見つかって共寝をしているんだろう、よかったね、結婚相手が見つかって、という歌になります。
『万葉集』の編纂者は、各巻の冒頭にどの歌をもってくるかに配慮したあとが窺えます。巻第1-1の歌も雄略天皇御製歌で、巻第9の冒頭にも雄略天皇の歌を置いています。これに続いては、第37代斉明天皇の時代から奈良朝の歌までさほど間断なく並んでいるのに、御製のみ格別に古いものになっています。国土を統一した英雄というので巻第9の権威を高めようとしたのかもしれませんが、鳴かない鹿の鳴き声を歌って鹿への優しい愛情を示したこの歌を選んだことに、編纂者の格別な思いが感じられるところでもあります。
なお、巻第8に、岡本天皇の御製歌として「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」(1511)という同じような歌があります。岡本天皇は舒明天皇またはその皇后でもあった斉明天皇をさし、何らかの因縁でこれらの混同が生じたようです。これら2首は第3句がわずかに異なっているのみですが、窪田空穂は、心としてはかなり距離があるとして次のように述べています。「岡本天皇の御製は、『鳴く鹿は』と、親しくその悲しげな鳴き声を聞いて憐れまれ、そこに力点を置いたものである。『は』と、強めの意の助詞を用いているのもそのためである。この御製の『臥す鹿の』は、小椋の山を寝どころとしている鹿のという意で、臥すということに力点を置いたものである。すなわち感覚をとおしての感と、心をもって推量した事という相違があって、その間に相応な距離があるのである」。

【PR】
雄略天皇の御代
雄略天皇は5世紀後半の英雄的な天皇で、その性質はまことに勇敢で、しばしば乱暴で残虐な行いもあったと『記紀』には記されています。また、中国の『宋書』の「夷蛮伝」には、478年に倭王「武」が上表文を奉じたと記されています。この「武」が雄略天皇であるというのが一般的な定説です。それによると、「武」の2、3代前の天皇または皇族たちは自ら武装して蝦夷(えみし)、熊襲(くまそ)、朝鮮の国々を征伐したと書かれています。
雄略天皇の御代には、国内はほぼ平定され、朝鮮半島にあった日本府「任那(みまな)」を中心として日本軍は大いに活躍して、盛んに新羅、高麗などを征討しました。はじめ463年に任那府の混乱に乗じようとした新羅を伐ち、翌464年には新羅の要請を受けて高麗を大いに破りました。
この時代の中国はまさに『三国志』の時代にあたり、その混乱を避けて、「呉」の貴信が百済から帰化したのをはじめ、呉、晋および朝鮮半島から多くの大陸の人々が日本に帰化しました。三国時代とそれに続く時代は社会的混乱を極め、難を避けて日本に帰化するものが後を絶たなかったといわれています。
彼らは高い文明の所有者として尊敬され、社会的にも政治的にも良い待遇を与えられました。その中には、秦の始皇帝の子孫と称していた融通王のように、120余県の人民をそっくり率いて帰化したものもいたし、また後漢の霊帝の子孫と称した阿智王も17県の人民を率いて帰化したし、魏の文帝の子孫と称していた安貴王も多数の臣下を連れて帰化しました。雄略天皇の時代にはこれら帰化人の人口は1万8千人以上に達したといわれています。当時の日本の人口は約1千万人前後と推定されていますから、帰化人の比率はかなり大きかったといえます。
これら帰化人たちの多くは、工芸・技術を伝えて、わが国の文化の発展に貢献しました。また宮中に入ったものは儒教思想を宣伝し、わが国の伝統的な政治思想と全く異質な政治思想を浸透させていきました。また、諸国に記録の官吏を置く制度ができてからは、帰化人が多くこれに任じられ、その官職はただ諸国の記録をつくるだけでなく、朝廷の出納も記録しました。
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |