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巻第9(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第9-1667~1671

訓読

1667
妹(いも)がため我(あ)れ玉求む沖辺(おきへ)なる白玉(しらたま)寄せ来(こ)沖つ白波(しらなみ)
1668
白崎(しらさき)は幸(さき)くあり待て大船(おほぶね)に真梶(まかぢ)しじ貫(ぬ)きまたかへり見む
1669
南部(みなべ)の浦(うら)潮な満ちそね鹿島(かしま)なる釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む
1670
朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ出て我(わ)れは由良(ゆら)の崎(さき)釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む
1671
由良(ゆら)の崎(さき)潮(しほ)干(ひ)にけらし白神(しらかみ)の磯の浦廻(うらみ)をあへて漕ぐなり

意味

〈1667〉
 妻へのみやげにしようと、玉を求めている。沖の白波よ、どうかその玉をこの海岸まで打ち寄せてくれ。
〈1668〉
 白崎よ、今の美しい姿のままで待っていてくれ。大船に多くの梶を取りつけて、また帰りにお前を眺めるから。
〈1669〉
 この南部浦に、そんなに潮は満ちないでほしい。鹿島で釣りをしている漁師を見て帰って来たいから。
〈1670〉
 朝早く漕ぎ出して、由良の崎で釣りをしている漁師を見て帰って来よう。
〈1671〉
 由良の崎ではもう潮が引いてしまっているらしい。白神の磯の海岸を精一杯に漕いでいる。

鑑賞

 大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇文武天皇が紀伊国の牟婁(むろ)の湯に行幸した時の歌13首のうちの5首で、いずれも作者未詳歌。巻第1-54~56にもこの行幸時の歌があり、また柿本人麻呂も従駕したことが知られています(巻第2-146)。一行は、9月18日に藤原京を出発、10月8日に牟婁の湯に到着、19日に帰京しており、前半の8首(1667~1674)が往路の海岸、後半の5首(1675~1679)が帰路の山道での作と見られています。

 
1667の「沖辺なる」は、沖辺にある。「白玉」は、真珠。左注に「右の一首は、上に見ゆること既に畢(をは)りぬ。但し歌辞少し換り、年代相違ふ。因りて累(かさ)ね載(の)す」とあり、1665の別伝とされます。宴において往年斉明天皇行幸時の古歌として1665が披露され、それを改変して詠んだのではないかとされます。1665の歌には「玉拾ふ」とあったのが、この歌では「玉求む」となっており、「拾ふ」の方が情景が具体的に描かれてよいと評されます。

 
1668の「白崎」は、和歌山県日高郡由良町にある岬。「幸く」は、変わることなく、無事で。「あり待て」は、待ち続けていよ。土地の擬人化であり、その土地の神に対する祈りです。「真梶しじ貫き」の「真梶」は左右に備わった立派な櫂、「しじ貫き」は、それらを隙間なく並べて差し入れること。力強く漕ぎ出す様子を強調し、官船を讃えていう常套的表現です。「またかへり見む」は成句で、見飽かない心をいったもの。

 
1669の「南部の浦」は、和歌山県日高郡南部町の海岸。「潮な満ちそね」の「な~そね」は、懇願的な禁止。「鹿島なる」は、鹿島にある。「鹿島」は、南部の浦の約1キロの沖にある小島で、南北2島から成ります。「帰り来む」は、戻ってこよう、帰ってこよう、という未来の意志を表します。

 
1670の「朝開き」は、夜明けを待って船出する意の語。「由良の崎」は、由良港付近の岬。「朝開き」という言葉が、歌全体に明るい光をもたらしています。夜が明け、静かな海へ滑り出す船の動きと、朝の澄んだ空気の中で遠くに海人の姿を捉える視線の対比が鮮やかです。また、前歌でも「釣りする海人を見て」という表現がありましたが、当時の貴族たちにとって、土地の生産者である「海人」が熱心に働く姿は、その土地の豊かさや平和を象徴する瑞祥として捉えられていたことを示唆しています。

 
1671の「潮干にけらし」は「潮干にけるらし」の意。「らし」は客観的な根拠に基づく推定で、潮が引いてしまったらしい。「白神の磯」は所在未詳ながら、由良の崎に近い海岸とされます。「浦廻」は、海岸の曲がりくねったところ、入り江の周辺。「あへて漕ぐなり」の「あへて」は、無理をして、押し切って。「漕ぐなり」の「なり」は、伝聞推定の助動詞。この歌は、作者が白神の磯の海岸にいて漕ぐ舟を見ているのか、あるいは自身がその舟中にいるのか解釈が別れるところです。
 


行幸について

 万葉の時代に行われた行幸のうち、天平15年(743年)に聖武天皇が恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に、五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと『続日本紀』天平15年4月辛卯条に記されています。また、奈良~平安時代にかけての他の行幸でも、1000名以上の随行が確認できるものが複数確認できるため、天皇の行幸となると、2000名ほどの陪従者が発生したのではないかと考えられています。

 行幸に際しては、律令官人たちは、天皇に随従する「陪従」と、宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があったといいます。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子が監国を務めて留守を守ることを前提とした条文がありますが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している場合がほとんどで、皇親や議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていたようです。また『延喜式』太政官式には、天皇が出発する数十日前からの行幸の準備について細かく規定が定められています。

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古典に親しむ

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