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巻第9(索引)<万葉集(掲載歌の索引)<古典に親しむ

『万葉集』巻第9-1685~1689

訓読

1685
川の瀬の激(たぎ)ちを見れば玉かも散り乱れたる川の常(つね)かも
1686
彦星(ひこほし)のかざしの玉し妻恋(つまごひ)に乱れにけらしこの川の瀬に
1687
白鳥(しらとり)の鷺坂山(さぎさかやま)の松蔭(まつかげ)に宿(やど)りて行かな夜(よ)も更け行くを
1688
あぶり干(ほ)す人もあれやも濡れ衣(ぎぬ)を家には遣(や)らな旅のしるしに
1689
荒磯辺(ありそへ)につきて漕(こ)がさね杏人(からたち)の浜を過ぐれば恋(こほ)しくありなり

意味

〈1685〉
 川瀬の激しい流れを見ると、きれいな玉が散り乱れているかのようだ。いつもこのような姿の川なのか。
〈1686〉
 天上の彦星の髪を飾っていた玉が、妻恋しさに乱れて散り落ちたらしい、この川の瀬に。
〈1687〉
 鷺坂山の松の木蔭に泊まろう。夜も更けてきたことだから。
〈1688〉
 ずぶぬれになった着物を火にあぶって乾かしてくれる人がいるはずもいない。いっそ家に送ろうか、旅路にいるという証拠に。
〈1689〉
 岩場に沿って船を漕いでください。杏人の浜を過ぎれば恋してたまらなくなるそうだから。

鑑賞

 『柿本人麻呂歌集』から5首。1685・1686は「泉川の辺にして間人宿禰(はしひとのすくね)の作れる歌」2首。間人宿禰は、名が略されており、伝未詳。「泉川」は、京都府南部を流れる木津川。1685の「川の瀬」は、川の中で流れが浅く、水流が速くなっている場所。「激ち」は、水の激しい流れ。「玉かも」の「かも」は疑問・詠嘆を表す副助詞で、玉なのだろうか、の意。原文「玉鴨」とあるのを、タマモカモ、タマヲカモと訓み添える説もあります。「川の常かも」は、この川のいつもの姿なのか、の意。水流の豊かな泉川を初めて目にした感動と見えます。3句目が「玉かも」と4音句になっているのも、その強い感動の表れとの見方があります。

 
1686の「彦星」は、七夕の牽牛星。「かざしの玉し」の「し」は、強意の副助詞。「妻恋に」は、妻(織女)への恋しさのあまりに。「乱れにけらし」は「乱れにけるらし」の意で、乱れ散ったのであろう。連作となっており、川の水の泡立ち流れるのを玉と見ただけでは心足らず、それを天上の物であるとし、彦星の妻恋の嘆きを連想して歌っています。七夕の日が近い秋の時季だったのかもしれません。ただ、伊藤博は、「玉を彦星に結びつけるのよりは織女のかざしの玉を持ち出した方が適切と思われるのに、ことさら彦星の玉に譬えているのはいかなる意図によるのか分からない。水流の激動が男性的であったせいであろうか」と言っています。間人宿禰のこれらの歌が『人麻呂歌集』に収められているのは、あるいは人麻呂と共に山背道を旅したことによるのかもしれません。

 
1687は「鷺坂(さぎさか)にて作れる歌」1首。鷺坂は今の京都府城陽市久世にある坂道で、大和から近江へ行く街道にあたります。「白鳥の」は、白い意で「鷺」にかかる修飾語的枕詞。「鷺坂山」は、この付近の丘陵を鷺坂山と呼んだもの。「松蔭」は「松」に男を待つ意を懸けて、家で待つ妻をにおわせたものか、との見方があります。単なる木蔭での旅寝を歌うにしては第3句までの表現が美しいので、あるいはそうかもしれません。「行かな」の「な」は、意志・願望の助詞。「夜も更け行くを」の「を」は、ここは理由・状況を表す接続助詞。夜も更けてきたことだから。土地ぼめと望郷の念とを調和して歌っている点が特徴的な歌です。

 1688・1689は「名木川(なきがわ)にて作れる歌」。名木川は、京都府宇治市南部を流れ、巨椋池(おぐらいけ)に注いでいた川ではないかとされます。一説には、昔の木津川が巨椋池に流れ込むあたりの名かと言います。巨椋池は、かつて京都府南部(京都市伏見区・宇治市・久世郡久御山町にまたがる地域)に存在した巨大な淡水湖・遊水池です。現在は干拓によって消滅し、広大な農地や住宅地に姿を変えています。
1688の「人もあれやも」の「人」は、旅中の作者を気遣ってくれるような女性の意。「あれやも」の「やも」は反語で、あろうか、ありはしない。「濡れ衣」は、雨に濡れた衣。「家には遣らな」の「な」は意志・願望の助詞で、家に送りたい。「旅のしるしに」は、旅中にある証拠に。この歌のように、衣を干すことが家妻の象徴のように歌われている歌は、巻第9の行旅歌群にも多く見られ、当時の男たちは妻のこの仕事に愛の姿を見出そうとしていたようです。

 
1689の「荒磯辺」は、岩石が露わになっている海岸。「漕がさね」は、漕いでください。「さ」は、敬語の助動詞「す」の未然形。「ね」は、他者への願望を表す助詞。「杏人の浜」は所在未詳ながら、名木川が巨椋池に注ぐ辺りの浜か。「杏人」の訓みも、カラヒト、カラモモ、モモサネ、オモヒトなど諸説あり、解釈もはっきりしません。あるいは「杏」は「唐」の誤写と見て帰化人の称ではないかとする説もあります。また、名木川ではなく琵琶湖を航行している時の作で、舟子に言った言葉を歌にしたものとする見方もあります。「恋しくありなり」の「なり」は、伝聞推定。

 1688は、名木川で雨に降られての詠と見えますが、その土地らしさは窺えません。また、1689は雨とは関係がないようであり、また名木川とも前歌とも結びつかない不可解な歌になっています。
伊藤博は、「杏人の浜」は土地の美しい女を寓した表現であり、前歌が家郷の妻に関心を寄せているのに対し、土地の女に執心する作として持ち出されたもので、前歌とともに名木川の旅宿での宴で披露されたのではないか、と述べています。また窪田空穂は、「杏人」を「唐人」の誤写と見る説に従い、次のように述べています。「そうした人の住んでいる浜を、『杏人の浜』と呼ぶことは自然なことで、また当時の帰化人は、学問伎芸をもっている者が多く、公からも尊重されていたので、人麿がそうした人の住んでいた地に対して漠然たる憧れを抱き、『恋しく』といったとすれば、これまたありうることに思える。舟子に対して敬語を用いるのは、その舟が身分ある人の物であれば、ありうることである。人麿が解し難い歌を詠むはずはないが、旅の歌で、その土地の人事的事情の実際に即していっているために難解となったのだと思われる」。
 


『万葉集』以前の歌集

  • 『古歌集』または『古集』
    これら2つが同一のものか別のものかは定かではありませんが、『万葉集』巻第2・7・9・10・11の資料とされています。
  • 『柿本人麻呂歌集』
    人麻呂が2巻に編集したものとみられていますが、それらの中には明らかな別人の作や伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではありません。『万葉集』巻第2・3・7・9~14の資料とされています。
  • 『類聚歌林(るいじゅうかりん)』
    山上憶良が編集した全7巻と想定される歌集で、何らかの基準による分類がなされ、『日本書紀』『風土記』その他の文献を使って作歌事情などを考証しています。『万葉集』巻第1・2・9の資料となっています。
  • 『笠金村歌集』
    おおむね金村自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第2・3・6・9の資料となっています。
  • 『高橋虫麻呂歌集』
    おおむね虫麻呂の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第3・8・9の資料となっています。
  • 『田辺福麻呂歌集』
    おおむね福麻呂自身の歌とみられる歌集で、『万葉集』巻第6・9の資料となっています。

 なお、これらの歌集はいずれも散逸しており、現在の私たちが見ることはできません。

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