| 訓読 |
1699
巨椋(おほくら)の入江(いりえ)響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見(ふしみ)が田居(たゐ)に雁(かり)渡るらし
1700
秋風に山吹(やまぶき)の瀬の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(かけ)る雁(かり)に逢へるかも
1701
さ夜中と夜(よ)は更けぬらし雁(かり)が音(ね)の聞こゆる空に月渡る見ゆ
1702
妹(いも)があたり繁(しげ)き雁(かり)が音(ね)夕霧(ゆふぎり)に来(き)鳴きて過ぎぬすべなきまでに
1703
雲隠(くもがく)り雁(かり)鳴く時は秋山の黄葉(もみち)片待つ時は過ぎねど
| 意味 |
〈1699〉
巨椋池の入江が騒がしくなった。射目人が伏すという伏見の田園に、雁が飛び渡っていく音らしい。
〈1700〉
秋風吹く山吹の瀬の音が鳴り響いているが、折も折、はるか天雲の彼方を翔けていく雁の群れが見える。
〈1701〉
夜は更けて真夜中に入っているようだ。雁が鳴きながら渡っていく夜空を月も渡っていくのが見える。
〈1702〉
妻の家のあたりで騒がしい雁の声が聞こえていたが、夕霧の中を鳴きながら来て通り過ぎていった。ああ、どうしようもなく切ないことだ。
〈1703〉
雲に見え隠れし雁が鳴く時になると、秋山のもみじがひたすら待ち遠しい。雁の季節は来ないけれども。
| 鑑賞 |
1699・1700は『柿本人麻呂歌集』から「宇治川にて作れる歌」。宇治川は、琵琶湖の南端の瀬田から瀬田川となって流れ出て、宇治市付近から大きく北へ湾曲し、伏見を通過して八幡市付近で木津川・桂川と合流して淀川となります。1699の「巨椋の入江」は、宇治市の西にあった巨椋池(おぐらいけ)。宇治川が流入する辺りが入江になっていたとされます。「響むなり」は、ナルナリと訓むものもあります。「射目人の」は、狩猟のときに隠れ伏して弓を射る人の意で、「伏し」と続いて「伏見」にかかる枕詞。「伏見」は、京都市伏見区の一帯。「田居」は、田んぼ。斎藤茂吉は、「入江響むなり」と、ずばりと言い切っているのは古調のいいところであり、こうした使い方は万葉にも少なく簡潔で巧みなもの、さらに、調べが大きく、そして何処かに鋭い響きを持っているところは、或いは人麻呂的、とも言っています。伊藤博も、「巻9雑歌の人麻呂歌集の中で、最もすぐれている。二つの地名を配合した単純な歌いぶりの中に自然の大景が鮮明に映し出されている」と評しています。
1700の「秋風に」は、秋風によって。「鳴る」にかかります。原文「金風」でアキカゼノと訓み、「山吹」の枕詞と見る説もあります。「山吹の瀬」は、所在未詳ながら、宇治橋下流の瀬ではないかとされます。美しい名であり、春に山吹が岸辺を彩る清らかな瀬なのでしょうか。「なへに」は、とともに、と同時に。「天雲翔る」は、雁が天雲の彼方を飛翔するさま。「かも」は、詠嘆。窪田空穂は、「自然界の大きな力をもって動乱するさまを、子細に見やって、その力を身に感じている」歌と評しています。2首連作であり、1首目は音によって雁を推測し、2首目ではその姿を実際に天空に見た感動を述べています。
1701~1703は、、弓削皇子に献上した歌3首。弓削皇子は、天武天皇の第9皇子で、長皇子と同母兄弟。高市皇子の没後の御前会議で葛野王に発言を制せられたことは有名です。皇子の作歌は『万葉集』に8首ありますが、巻第9にはここと1709の題詞に名が見えるのみ。人麻呂との関係は、忍壁皇子を通じての縁だっただろうと推測されています。文武3年(699年)、30歳前後で没。
1701の「さ夜中と」の「さ」は、接頭語。夜中の状態となって。「聞こゆる空に」は原文「所聞空」で、キコユルソラユ、キコユルソラヲと訓むものもあります。斎藤茂吉はこの歌について、「ありのままに淡々と言い放っているのだが、決してただの淡々ではない。本当の日本語で日本的表現だということもできるほどの、流暢にしてなお弾力を失わない声調」と評しています。この歌は巻第10-2224に類歌が存在し、『古今集』にも採録されており、人々に愛唱され、伝承されたものと見えます。
1702の「妹があたり」は、妹の家のあたり。「繁き」は、しきりに、騒がしく。「夕霧に」の「に」は動作の行われる場所を示しており、夕霧の中を。「すべなきまでに」は、どうしようもないほどに。原文「及乏」で、トモシキマデニと訓み、羨ましいまでに、と解するものもあります。1703の「片待つ」は、ひたすら待つ。結句の「時は過ぎねど」は原文「時者雖過」で、トキハスグレド、トキハスグトモなどと訓み、その季節は過ぎるけれども、のように解するものもあります。
3首とも雁を中心に据え、それぞれ、秋の景物である月、霧、もみじを取り合わせています。また、甚だしい障害のため愛しい女のもとに行けず、秋の夜をひとり過ごす男が夜空の雁の声を聞く、という設定のもとで詠じられており、皇子邸での文雅の宴に献じられたものと見えます。

斎藤茂吉について
斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。
子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。

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