| 訓読 |
1704
ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧(やまぎり)繁(しげ)みかも細川(ほそかは)の瀬に波の騒(さわ)ける
1705
冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ吾等(われ)ぞ
1706
ぬばたまの夜霧(よぎり)は立ちぬ衣手(ころもで)を高屋(たかや)の上にたなびくまでに
| 意味 |
〈1704〉
枝を手折ってたくさんためるという、多武の峰に立ちこめた霧が濃いためか、ここ細川の瀬の波音が高い。
〈1705〉
冬のさなかに、春が来るのを心待ちにして植えた木が、花開いて実になる時を、ただじっと待ち続けている我らであります。
〈1706〉
夜霧がたちこめている。屋敷の高殿の上まですっぽり覆いつくしてたなびくほどに。
| 鑑賞 |
『柿本人麻呂歌集』から3首。1704・1705は、舎人皇子に献上した歌。舎人皇子は、天武天皇の第3皇子で、第47代淳仁天皇の父。養老4年(720年)5月『日本書紀』を撰集して奏上、同年8月、知太政官事。神亀6年(724年)には長屋王を窮問して自尽せしめ、同年、光明子立后の宣明を宣べた人です。『万葉集』には3首の作歌があります。
1704の「ふさ手折り」は、ふさふさと手折ってたわむ意で「多武」の枕詞。「多武の山」は、奈良県桜井市南方の多武峰(とうのみね)。「山霧繁みかも」は、山霧が濃く立ち込めるからか。「細川」は、多武の峰から発する谷川。窪田空穂は、「捉えていっていることは、多武の山と細川の、その目立った秋霧の状態という、微細なものであるから、これは皇子が目にしていられるものでなくては意味をなさない。皇子の少なくともその日の御座所がその辺りにあって、そこへ伺候した人麿が挨拶代わりに詠んだという関係のものと思われる。・・・感覚の微細に働いた歌である。こうしたことは、そこの状態を見馴れている者でないと興味を感じないことで、二人の間にのみ通じる心である。一首の調べが張っていて、心をこめて詠んだものである点から見て、皇子と人麿の関係が思わせられる」と述べています。
1705の「冬こもり」の原文「冬木成」は、冬木が芽を出し茂る意で、「春」にかかる枕詞。「春へ」は、春のころ。「片待つ」は、ひたすら待つ。この歌について窪田空穂は、「何事かを譬喩的にいっているもので、その本義の何であるかは、皇子と人麿以外にはわからないことである。舎人皇子は皇子の中でも勢力のある人であり、人麿はきわめて身分が低かったらしく、また、『吾』を『吾等』といっているので、代弁者という形である。秋、移植した木の、春、花が咲き実の結ぶのを片待つということは、常識的に考えると、春を定期の叙任の時とし、その時の推挙支持を皇子に乞いたいとの心をほのめかしたものではないかと思われる」と述べています。
伊藤博も、「この2首、寓意がないとすれば、何のつながりもない歌になり、献歌の体をなさない。かならず寓意があろう。だが、その寓意が何であるかが明瞭でない」と述べています。一方、斎藤茂吉は、そのようにさまざまな寓意が込められているとして解釈を加えようとするのを、これだけの自然観照をしているのに寓意寓意というのは鑑賞の邪魔物であると断じています。
1706は「舎人皇子(とねりのみこ)の御歌一首」として載っている歌。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「衣手を」は、衣の袖をたくし上げる意の「たく」にかかる枕詞で、ここでは「高屋」にかけたもの。「高屋」は、舎人皇子の邸内の高楼。一方、「高屋」は、現在の桜井市高家の地名であり、飛鳥から東にある高家の方を見て詠まれた歌ではないかとする見方もあります。また、この歌の前にある皇子への献歌(巻第9-1704)に応じて作られた歌ではないかとも見られています。
1701からこの歌までの6首は同じ場で詠まれたものであり、最後を舎人皇子が締めているところから、舎人皇子の邸宅に弓削皇子ほか官人らが集まった宴の場だろうと推測されています。人麻呂はその中にあって、集う人々の秋の感興を代表する形で歌を詠み進めたのだろう、と。また、天武天皇の皇子、しかも皇女腹の高貴な皇子たちによる秋の雅宴の背景には、『文選』の「秋風の辞」に代表される六朝の文学思想があったのではないかとも言われます。

『日本書紀』
日本最古の勅撰歴史書。全30巻。六国史の筆頭で、『古事記』とあわせて「記紀(きき)」という。天武天皇の第3皇子舎人(とねり)親王が、勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂、養老4年(720年)に完成、朝廷に献じられた記録がみえる。第1・2巻は神代、第3巻以下は神武天皇の代から持統天皇の代の終わり(697年)までを、年紀をたてて編年体に配列してある。その記事内容は、① 天皇の名・享年・治世年数・皇居の所在地を列記した帝紀、② 歴代の諸説話・伝説などの旧辞、③ 諸家の記録、④ 各地に伝えられた物語、⑤ 詔勅、⑥ 壬申の乱の従軍日記などの私的記録、⑦ 寺院縁起、⑧ 朝鮮・中国の史書の類から成っている。『古事記』と関係が深く、『古事記』と同様に天皇中心の中央集権国家の確立にあたっての理論的・精神的な支柱とすることを目的としている。ただし、『古事記』が一つの正説を定めているのに比し、『日本書紀』は諸説を併記するなど史料主義の傾向がある。また、『古事記』が国語表現をでき得る限り表記しようとしているのに対し、歌謡など一部を除いて徹底的な漢文表記となっており、漢籍、類書、仏典を用いた漢文的潤色が著しいものとなっている。
【PR】
天武天皇の子女
皇子
高市皇子/草壁皇子/大津皇子/忍壁皇子/穂積皇子/舎人皇子/長皇子/弓削皇子/新田部 皇子(生年未詳)/磯城皇子(生没年未詳)
皇女
十市皇女/大伯皇女/但馬皇女/田形皇女/託基皇女/泊瀬部皇女(生年未詳)/紀皇女(生没年未詳)
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |