| 訓読 |
1716
白波(しらなみ)の浜松の木の手向草(たむけくさ)幾代(いくよ)までにか年は経(へ)ぬらむ
1717
三川(みつかは)の淵瀬(ふちせ)も落ちず小網(さで)さすに衣手(ころもで)濡れぬ干(ほ)す子は無しに
1718
率(あども)ひて漕(こ)ぎ去(い)にし舟は高島の安曇(あど)の港に泊(は)てにけむかも
1719
照る月を雲な隠しそ島蔭(しまかげ)に我(わ)が船(ふね)泊(は)てむ泊(とま)り知らずも
| 意味 |
〈1716〉
白波の打ち寄せる浜辺の松の枝に結ばれたこの手向けの紐は、結ばれてからどのくらいの長い年月を経てきたのだろう。
〈1717〉
三川の淵にも瀬にも残らず小網を張っているうちに、着物の袖が濡れてしまった。干してあげようと言う子もいないのに。
〈1718〉
声を掛け合いながら漕いでいった舟は、今頃、高島の安曇の港にでも停泊したのだろうか。
〈1719〉
明るく照る月を、雲よ隠さないでおくれ。島陰に我らの舟を泊めるのに、暗くて船着場が分からないではないか。
| 鑑賞 |
1716は、有馬皇子にちなむ岩代の浜松を詠んだ歌。題詞に「山上が歌」とあり、山上憶良の作とみられますが、左注には「或いは川島皇子の御作歌といふ」とあります。巻第1-34には「白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ (一云 年は経にけむ)」の歌が載っており、そちらには「紀伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌、或いは山上臣憶良作るといふ」とあります。この時の行幸は、持統4年(690年)9月のもので、川島皇子34歳、山上憶良31歳の時にあたります。「白波の」は「寄す」などの語を省いた枕詞的用法で、「浜松」にかかります。「浜松」は、浜辺に立つ松。「手向草」は、旅の無事を祈って捧げた幣のことで、麻布の類。「らむ」は、現在推量。
巻第1の歌とこの歌の関係について、国文学者の金井清一は次のように述べています。「巻一の歌は、行幸時に公的に献じられたものであろう。巻九の方は、献呈時に文書あるいは口誦で披露されたものを、見たか聞いたかして心覚えに記録したものか、さらに又聞きして書きとめたものであろう。したがって詞句の小異を生じたものと思われる。作者を川島皇子でなく山上憶良としているのは、こうした献呈歌の実作者が名義上の作者とは異なることを知っている人物、つまり行幸従駕の軽輩の歌人たちであろうか、そうした人物が伝えたためと思われる。柿本人麻呂の可能性もある。左注は巻九の編者が巻一を参照して後に加えたものであろう」。
1717は、題詞に「春日が歌」とあるのみで、春日蔵首老の作であるかは確定しません。巻第9のこのあたりの題詞は非常に不親切で、この歌の前後にある1716・1718も、それぞれ「山上の歌一首」「高市の歌一首」とあるのみです。このような簡便な記名がなされているのは、内輪の仲間や旧知の人の作を集めた私的な資料の類だったからかもしれないとの見方があります。「三川」は、所在未詳。滋賀県大津市下阪本の四ツ谷川と見る説があります。「淵瀬も落ちず」の「落ちず」は、残らず、残さず、欠かさず。「小網」は、柄のある漁用の網、すくい網。「衣手」は、着物の袖。「干す子」は、濡れた衣を乾かすなどの面倒を見てくれる若い女性。旅先の詠であり、その不自由さを訴えている歌です。
1718は、題詞に「高市が歌」とあり、確証はないものの、歌風や詠まれた土地が湖西の高島付近であることから高市黒人の作と認められています。高市黒人は、柿本人麻呂と同時代の宮廷歌人。「率ひて」は、声を掛け合って、または率いて。舟を漕ぎ進めるために声を揃えて調子を合わせて漕ぐのであり、第4句の「安曇の港」のアドの地を思って(めざして)、の意を掛けているとの見方があります。「高島の安曇の港」の「高島」は、琵琶湖西北岸の滋賀県高島市。「安曇の港」は、安曇川の河口。「泊てにけむかも」の「けむ」は過去推量、「かも」は詠嘆。湖岸から湖上を眺めての歌と見え、高市黒人の巻第1-58の歌と趣が似ています。
文学者の犬養孝は、この歌を評し、「『率ひて・漕ぎ行く・船は』と一つの方向に焦点化してゆく表現は、作者の、船によせる心ひかれの心情でもあり、湖上のあとに残る寂寥感をもあらわしてゆく。そこへ三・四句の地名によって縹渺(ひょうびょう)たる大景の中のはるかな一点が明示されて結句の詠嘆となるから、作者の、船のあとを追う心情も、空虚な夕景の湖面にのこる旅のやるせなさ不安なわびしさもいちだんと強まってくる」と述べています。
1719は「春日蔵が歌」とあり、1717の作者と同一人とする説もありますが、わずか1首を隔てて作者名の表記が異なるのは不審とされ、また同一人なら2首をまとめて記すと考えられるところです。「雲な隠しそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「島蔭」は、島の入江の、周囲から見えにくい場所。「知らずも」の「も」は、詠嘆。舟に乗っている人の立場に立って、先行きを危ぶんでいる心を詠んでいる歌です。なお、左注に「右の一首は、或る本に云ふ、小弁の作なりと云へり」云々の記載があります。「小弁」は、伝不明。弁官の官名であるなら「少弁」と記すはずであり、春日蔵首老の僧名が弁基(べんき)であったことから、僧時代の「小弁」の通称(あだ名)が還俗後にも用いられ、後に別人として誤って扱われたものかもしれません。
春日蔵首老は、弁記という法名の僧だったのが、大宝元年(701年)、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。和銅7年(714年)正月に従五位下。『懐風藻』にも詩1首、『万葉集』には8首の短歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。

人名の下に付く「の・が」
『万葉集』の歌の題詞や左注の人名の下に付く連体助詞には、「の」と「が」との使い分けが見られます。上掲の歌では「春日が歌」「春日蔵が歌」となっており、他にも「大伴宿禰家持が歌」「大伴坂上郎女が歌」などの例がある一方で、「大津皇子の御歌」「長屋王の歌」「太宰帥大伴卿の和ふる歌」などと記されているものがあります。
これらの使い分けは相対的であるものの、一般には次のように言われています。すなわち、自分自身や親しい間柄にある相手(親子、兄弟姉妹、夫婦など)や、目下の仲間や愛称の接尾語「ら」の付く者などに対しては「が」が用いられ、そうではない相手、たとえば畏怖すべき、または敬うべき相手(皇族、主君、親など)に対して、または相互に交流のない海人、山人などに対しては「の」が用いられています。別の言い方をすれば、内あつかいの人には「が」、外あつかいの人には「の」を用いているのです。そうした基準に基づいて、編者の立場から使い分けが行われているとされます。
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