| 訓読 |
1732
大葉山(おほばやま)霞(かすみ)たなびきさ夜(よ)更(ふ)けて我(わ)が舟(ふね)泊(は)てむ泊(とま)り知らずも
1733
思ひつつ来(く)れど来(き)かねて三尾(みを)の崎(さき)真長(まなが)の浦(うら)をまたかへり見つ
1734
高島(たかしま)の安曇(あど)の港を漕(こ)ぎ過ぎて塩津(しほつ)菅浦(すがうら)今か漕ぐらむ
1735
我(わ)が畳(たたみ)三重(みへ)の川原(かはら)の礒(いそ)の裏(うら)にかくしもがもと鳴くかはづかも
1736
山(やま)高(たか)み白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ夏身(なつみ)の川門(かはと)見れど飽かぬかも
1737
大滝(おほたき)を過ぎて夏身(なつみ)に近づきて清き川瀬を見るが明(さや)けさ
| 意味 |
〈1732〉
大葉山に霞がかかり、夜も更けてきたというのに、われらの舟を泊める港が分からない。
〈1733〉
思いを残して来はしたたが、やはり素通りしかねて、三尾の崎やら真長の浦を幾度も振り返って見たことだ。
〈1734〉
高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて、今ごろは、塩津か菅浦あたりを漕いでいるのだろうか。
〈1735〉
三重の川原の岩蔭で、かくしもがも(いつまでもこうしていられたら)と鳴いているように聞こえる河鹿であるよ。
〈1736〉
山が高いので、水が真っ白な白木綿のように落ちて激するこの夏身の川門は、見ても見ても見飽きない。
〈1737〉
大滝を通り過ぎ、夏身の川原に近づいてその清らかな川瀬を見ると、実に心さわやかであることよ。
| 鑑賞 |
1732・1733は、碁師(ごし)の歌。碁師がどういう人であるか不明で、碁氏出身の法師、あるいは碁打ちかともいわれます。巻第4-500の題詞に見える碁檀越(ごのだにおち)と同一人と見る説もあります。1732は、巻第7-1224の作者未詳歌との重出。また下2句は、小弁作の異伝をもつ1719の下2句とも同じ。「大葉山」は、紀伊国の山とされますが、近江国の説もあり、所在未詳。海または湖に近く、航海の目標になった山と見られます。「さ夜」の「さ」は、接頭語。「霞」は、ここは夜霧。「知らずも」の「も」は、詠嘆。
1733は、琵琶湖を舟行した時の歌。「思ひつつ」は、発って来た地(港町)で歓待してくれた人々(女たち)を思いながら。「三尾の崎」「真長の浦」は、いずれも琵琶湖西岸の高島市の地。三尾は、水陸の交通の要衝であったと共に、軍事上の要地でもあり、壬申の乱や藤原仲麻呂の乱で戦場となった所です。この歌は、あるいは前歌の続きからすると、停泊する港を探しあぐねて、通り過ぎた真長の浦あたりで停泊すべきだったと歌っているものかも知れません。
1734は、小弁(しょうべん)の歌。小弁は名か官名か不明で、1719の左注にも出た名です。弁官の官名であるなら「少弁」と記すはずであり、春日蔵首老の僧名が弁基であったことから、僧時代の「小弁」の通称(あだ名)が還俗後にも用いられたのではないかとの見方があります。「高島の阿渡の湊」は、滋賀県高島市の安曇川の河口。「塩津」は、琵琶湖北端の塩津山がある地。「菅浦」は、同じく琵琶湖の北部にある浦。琵琶湖に漕ぎ出していった知人の行程を思いやっている歌です。
1735は、伊保麻呂(いほまろ:伝未詳)の歌。「我が畳」は、重ねて敷く意で「三重」にかかる枕詞。「三重の川原」は、今の四日市市にある内部川の河原。「礒の裏」は、岩陰。磯は、海だけでなく川にも池にも言います。「かくしもがもと」の「かく」はこのように、「しも」は強意、「がも」は願望。このようにばかりあってほしいと。「かはづ」は、清流に棲むカジカガエル。窪田空穂は、「河鹿の声を、河鹿自身が、その生存を喜んでいる声と聞きなしたのである。これは珍しく、例の少ないものである。言いあらわしも、その心にふさわしいもので、・・・『かくしもがもと鳴く』というのは、河鹿を擬人化したという程度のものでなく、むしろ作者の生活気分を反映したものとみえる。安らかに人生の深所に触れ得ている歌である」と評しています。
1736は、式部大倭(しきぶのおおやまと)が吉野で作った歌。「式部」は式部省の官人。「大倭」は、神護景雲3年(769年)に没した大和宿祢長岡(やまとのすくねながおか)か。若くして法学に長じ、文章を能くしたといわれる人です。「山高み」は、山が高いので。「白木綿花」は、木綿でつくった造花、または、木綿の白さを花に喩えたもの。「夏身」は、吉野町菜摘で、離宮の上流地点。「川門」は、川の幅が狭くなっている所。なお、巻第6-909に笠金村の類歌「山高み白木綿花に落ちたぎつ滝の河内は見れど飽かぬかも」があり、どちらが先か分かりません。
1737は、兵部川原(ひょうぶのかわら)の歌。「兵部川原」は、兵部省の官人の川原氏と取れますが、誰であるかは不明。「大滝」は、夏身との位置関係から、宮滝ではないかともいわれます。「近づきて」の原文「傍爲而」は難訓とされ、ソヒテヰテ、ソヒヲリテ、チカクシテなどとも訓まれています。「明けさ」は、心のさわやかなことよ。サヤケシに「明」を用いているのは集中この一首のみとされ、通常は「清」を用い、その対象についてはキヨシと言い、対象から受けた印象についてサヤケシと言います。

旅の歌に地名が詠まれるわけ
『誤読された万葉集』(古橋信孝:著)から抜粋引用~
旅の歌にはいくつかの型があって、別れてきた妻や恋人を想う型、土地の風物を詠む型がほとんどだが、いずれにしても地名を詠み込んでいるものが多い。たとえば、次の人麻呂の歌もそうである。
淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす(巻第3-251)
地名が詠み込まれていれば、場所が限定される。その土地を知っている読者にとっては、歌から浮かぶ像がいっそう鮮明になるといえる。しかし、大部分の読者はそんな場所を知らないはずだ。にもかかわらず、歌に地名を詠み込んでいるわけで、なんらかの効果をねらっていると考えられる。
この歌は、「野島の崎の浜風に」と「紐吹きかへす」とのつながりが文法的におかしい。「吹きかへす」の主語は、普通に考えれば、「浜風」のはずである。「浜風は」となっていれば問題はない。しかし「浜風に」となっている。となれば、「吹きかえす」の主語を考えなければならなくなる。「何か」が紐を吹き返すのである。その「何か」とは何か。
旅とは不安なものである。この不安感を、古代の人々は霊的なものに祈ることで解消しようとした。峠などの境界的な場所で幣(ぬさ)を捧げたように、祈る対象は土地の神々である。と考えてくると、「何か」は土地の神ではないかと思い至る。野島の崎の神が浜風によって紐を吹き返したのではないか。
紐は旅立つ前に恋人か妻が無事を祈って結んでくれたものである。紐には霊的な力がある。自分の魂を守ろうとしたと考えればいい。魂がかんたんに離れないように強く結んでくれたと考えてもいい。驚くことを「たまげる」というが、たまげるは「魂消る」で、魂は特別なとき、離れてしまうことがあった。だからこそ恋人か妻が結んでくれたのである。したがってこの歌は、その紐が土地の神に感応した状態が詠まれていることになる。
旅の歌に地名を詠みこむのは、本来、その土地の神を詠むことなのである。なぜかといえば、その土地を無事に通してもらうためだ。そのため、旅人は神に祈る。しかし、直接に神に祈っている歌は少ない。考えてみれば当然で、祈りはそのための呪文や祝詞(のりと)など、特別な言い方がある。とすれば、地名を詠みこむことで神を称えたのではないか。歌は文学、つまり言葉が美へ向かうものだから、地名を歌に詠むことは土地の神々を美として称えることになるのである。
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