| 訓読 |
1749
白雲の 竜田(たつた)の山を 夕暮に うち越え行けば 滝の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにきり 含(ふふ)めるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見(め)さずとも かにもかくにも 君がみ行きは 今にしあるべし
1750
暇(いとま)あらばなづさひ渡り向(むか)つ峰(を)の桜の花も折らましものを
1751
島山(しまやま)を い行き廻(めぐ)れる 川沿(かはそ)ひの 岡辺(をかへ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ 我(わ)が越え来(こ)しか 一夜(ひとよ)のみ 寝たりしからに 峰(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負(お)へる杜(もり)に 風祭(かざまつ)りせな
1752
い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも
| 意味 |
〈1749〉
竜田の山を夕暮れ時に越えて行こうとしたら、激しい流れのほとりの桜は、咲いた花は散りつつも、つぼみの花はこれからまだ咲き継いでいくでしょう。あちらこちらに花の盛りをご覧になれぬとしても、あなたがいらっしゃるには今がいちばんよい時です。
〈1750〉
暇があったら、水に妨げられながらも川を渡り、向こうの峰の桜の花も折って来ようものを。
〈1751〉
島山を行き巡って流れる川沿いの、岡辺の道越えて来たのは昨日だったが、一夜だけ旅の宿りをしただけなのに、尾根の桜は、滝の瀬から散り落ちて流れている。我が君がご覧になるだろうその日までは、山おろしの風よ吹くなと願って越えて行き、風の神の名を持つ社で、風を鎮める祭りをしよう。
〈1752〉
神の行き逢う国境の坂の麓に、枝もたわむほどに咲いている桜の花。この美しい光景を見せてやれる子がいたらなあ。
| 鑑賞 |
高橋虫麻呂の長反歌2組。春3月に、諸卿大夫らの人々が難波に下ったときの歌で、1747から1752まで都と難波を往復した際に詠まれた歌が続いています。「諸卿大夫」の「卿」は三位以上の人、「大夫」は五位以上の人の敬称。この「春3月」がいつだったかについて、神亀3年(726年)に、荒廃した難波宮の再建工事の最高指揮官(知造難波宮事)として藤原宇合(不比等の子)が任命されており(巻第3-312)、『続日本紀』の天平4年(732年)3月26日の記事に、宇合ほか工事に携わった力役まで天皇から褒美をいただいたとあるので、造営工事の完成を祝う式典行事の折だろうとの見方があります。虫麻呂は、その随員として従っていたらしく、そうすると、歌中の「君」は、虫麻呂の上司である宇合を指していることになります。
1749の「白雲の」は「竜田」の枕詞。「うち越え行けば」の「うち」は、馬を鞭打つ意。「含めるは」は、蕾んでいるものは。「咲き継ぎぬべし」の「べし」は推量で、続いて咲くであろう。「こちごちの」は、あちらこちらの。「見さずとも」の「さ」は、尊敬。ご覧にならなくても。「君がみ行き」は、君のご旅行、お出まし。作者も旅の一行に加わっていますが、一行の中心人物は宇合であるため、このように言っています。「今にしあるべし」の「し」は、強意の副助詞、「べし」は、適当の意の助動詞。
1750の「なづさひ渡り」は、水に漬かって難渋しながらも何とか渡って。「なづさふ」の集中の諸例は、いずれも水に関連して用いられています。「向つ峰」は、向かいの峰で、前の1747にある「小椋の嶺」。「折らましものを」は、反実仮想で、折り取って来たいのだが(現実には不可能だ)。一行は小休止して山々に咲く桜の花を賞美していたのでしょう。前の長反歌(1747・1748)では春山の美景への願望を歌い、ここでは現在の光景が主君の難波行きを予祝していることを詠じており、いずれの歌からも人間味ある主従の強い紐帯を窺うことができます。
1751・1752は、難波で一泊して翌日帰って来たときの歌。1748で「七日は過ぎじ」といっていた予定が、何らかの理由で早く帰ることになったと見えます。1751の「島山」は、蛇行する川に山が突き出て島のように見える所。「い行き」の「い」は、接頭語。「岡辺の道ゆ」の「ゆ」は、起点・経過点を示す格助詞。「寝たりしからに」は、寝ただけだというのに。「から」は、原因・理由を示す助詞。「君が見む」の「君」は、藤原宇合のこと。「風な吹きそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「名に負へる杜」は、風の神としての名声を持っている神の社。竜田峠の谷間は北西の風の通り道であり、そうした地形条件から、竜田神社は土地神であると共に風神とされました。「風祭り」は、風の災いを防ぐための祭り。「せな」の「な」は、自身の願望を表す助詞。この句は、宇合が作者より遅れて帰途につくことを示していますが、先に帰ったのは虫麻呂一人だけだったのか同行の者がいたのかは不明です。昨日とは打って変わった落花の有様に、主人のために何とか残ってほしいとの願いを込めています。
1752の「い行き逢ひの坂」は、竜田越えの峠坂で、隣国の神どうしが山の両側から登り行き合って境界を決めたという伝承のある坂。「咲きををる」は、咲いて撓んでいる。「見せむ子もがも」の「もがも」は願望で、見せたい子がいたらなあ。「い行き逢ひの坂」で、乙女との出会いを想像して詠んだ歌です。最後に乙女を想像して結んだのは、主人のいない一人旅の気軽さの故でしょうか。美しい乙女への憧れは、虫麻呂に固有なものの一つでもあります。

藤原宇合
藤原宇合(ふじわらのうまかい)は不比等の3男で、藤原4家の一つである「式家」の始祖にあたります。若いころは「馬養」という名前でしたが、後に「宇合」の字に改めています。霊亀3年(717年)に遣唐副使として多治比県守 (たじひのあがたもり) らと渡唐。帰国後、常陸守を経て、征夷持節大使として陸奥の蝦夷 (えみし) 征討に従事、のち畿内副惣管、西海道節度使となり、大宰帥 (だざいのそち) を兼ねましたが、天平9年(737年)、都で大流行した疫病にかかり44歳で没しました。正三位参議で終わりましたが、長く生きていれば当然、納言・大臣になれたはずの人です。『万葉集』には6首の歌が載っています。
【PR】
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |