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巻第9(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第9-1766~1769

訓読

1766
我妹子(わぎもこ)は釧(くしろ)にあらなむ左手の我(わ)が奥(おく)の手に巻きて去(い)なましを
1767
豊国(とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ)紐児(ひものこ)にいつがり居(を)れば香春(かはる)は我家(わぎへ)
1768
石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂(ほ)には出(い)でず心のうちに恋ふるこのころ
1769
かくのみし恋ひし渡(わた)ればたまきはる命(いのち)も我(あ)れは惜(を)しけくもなし

意味

〈1766〉
 あなたが釧であったらいいのに。そしたら、私の大事な左の奥の手に巻いて旅立とうものを。
〈1767〉
 豊国の香春のこの里は私の家だ、紐の児と結ばれているのだから、香春は我が家のようなものだ。
〈1768〉
 石上の近くにある布留の里の早稲田ではないが、穂にも出さず、ひそかに心の中でずっと恋い焦がれているこの頃だ。
〈1769〉
 こんなにも恋い慕うことを続けていると、命も私は惜しいこともない。

鑑賞

 1766は、振田向宿祢(ふるのたむけすくね)が、筑紫の官に任ぜられて下る時に、あとに残る妻に贈った歌。「振」が氏、「田向」が名ですが、伝未詳。ここから29首が「相聞」の部となっており、年代の古い歌としてその最初に置かれたものと見えます。1775までが古の時代(白鳳期)の歌らしいとされます。「釧」は、ひじまきとも呼ぶ腕輪で、手首やひじのあたりに巻きつける装身具。貝、石、金属などで作るとされます。「あらなむ」の「なむ」は願望の終助詞で、あってほしい。「奥の手」は、左手を右手よりも尊んでの称とされ、左手は右手よりも不浄に触れることが少ないとしての上代の信仰によるとみられています。記紀神話にも多く見える考え方で、この風習は、いまも欧州に残っているといいます。「巻きて去なましを」は、巻いて持って行こうものを。

 愛する人との別れに際し、その人を身につける品にして持って行きたいというのは人情であり、この類想も多くありますが、釧(腕輪)にしたいと歌っているのは珍しいものです。窪田空穂は、「釧はこの時代にはすでに古風の物となっていて、大体、記憶の世界の物であったろうと思われる。奥の手ということも、他に用例のないところから、同じ範囲のものであったろう」と述べています。

 1767~1769は、
抜気大首(ぬきけのおほびと)の歌。題詞に「筑紫に任(まけ)らえし時、豊前の国の娘子(をとめ)紐児(ひものこ)を娶りて作れる歌三首」とあります。抜気大首は、伝未詳。変わった名で、姓が「抜気大」なのか「抜氣」なのか、「大首」も姓か名か分かっていません。訓み方も、ヌキケノオホビトのほかヌキノケタノオビトとも訓まれています。都の役人だった作者が筑紫に赴任し(あるいはこの地方の小豪族であったのが、大宰府の官人に登用されていたのが)、豊前国の紐児(ひものこ)という女性と恋に落ちて結婚しました。ここの歌は、その喜びを歌っており、紐児は豊前田河郡の遊女といわれています。宴席で歌った歌とする見方もありますが、題詞に「娶(めと)って」とあるので、やはり結婚してしまったのでしょう。『万葉集』にはここの3首のみ。

 
1767の「豊国」は、大分県と福岡県東部。豊前国と豊後国に分割される前の国名か。「香春」は、福岡県田川郡香春町(かわらまち)で、豊前国から大宰府へ通ずる要路にあたり、官人には縁の深い地だったとされます。「いつがり」の「い」は接頭語、「つがり」は一つに繋がっている意で、夫婦関係を結んでいること、くっついて離れずにいること。また「紐」の縁語でもあります。「我家(わぎへ)」はワガイヘの約。第2句を第5句で繰り返す古歌の形式によって、感情の高鳴りを表しているものです。

 
1768の「石上布留の早稲田の」は「穂」を導く譬喩式序詞。「石上布留」は、いまの天理市から石上神宮にかけての地。「早稲田」は、早稲が植えられている田。「穂には出でず」の「穂」は稲穂でもあり、また顔の頬あるいは表面の意で、外には表さず、人目につかず。1769の「かくのみし恋ひし渡れば」の2つの「し」はどちらも強意で、こんなにも恋い続けていると。「たまきはる」は、霊(霊力・生命力)が極まる意で「命」の枕詞。「惜しけく」は「惜し」のク語法で名詞形。「命も我れは惜しけくもなし」は成句に近いもので、似た用例の歌が多くあります。

 1768・1769は連作で、歌で見ると、誰を恋うているとも分からず、1767にある「石上布留の早稲田の」の序詞から、故郷の妻のことかとも取れます。しかしここは、用例の多い序詞をそのまま気安く使ったものと見え、題詞にある通り、紐児を恋うたものとされます。いずれにせよ類想の多い歌であり、第1首(1767)の存在によってかろうじて救われている歌群であると言えます。
 


北九州について

 北九州の諸地がその地勢上はやくから大陸との交渉をもち、新文化流入の門戸となって、すでに3世紀ごろまでに小国家群がつくられ、文化の黎明がつげられていたことはいうまでもない。4世紀ごろからしだいに大和朝廷の勢力下となり、7世紀天智天皇のとき、大宰府が内陸にうつされてからは、大宰府はまさに”遠(とほ)の朝廷(みかど)”となって、九州(筑紫)全体を総管するのみならず、国防・外交・貿易の拠点として、つねに西辺よりする文化の活力源となっていた。

 万葉の筑紫もこの”遠お朝廷”を中心として展開する。少数土着の人の歌もなくはないが、ほとんどは中央派遣の官人群や海外派遣の使人らによる歌詠で、ことに神亀年間から天平にかけて太宰帥大伴旅人、筑前守山上憶良らを中心に、いわば筑紫歌壇が形成されたといってもいい時代は、筑紫万葉の最盛期で、それはまた西辺よりする万葉文学への活力源でもあった。官人らが”天ざかるひな”におかれて接する異郷の自然風土が、望郷・旅愁の場となるのはもちろん、風雅に遊び、生活に徹し、制作意欲を刺激されるのも、官人の意識を新たにするのもみな”天ざかるひな”をはなれてのものではない。そこに特異な万葉風土圏が形成されてくる。

 大宰府のあった福岡県に万葉所出の地名の集中するのは当然のことであって、福岡県だけで歌・題詞・左註に出る地名延て130におよび、それに「筑紫」「西海」のような総名を延て加えれば計165ほどになる。さらに、地名を含まないこの地での歌も多い。故地の大部分は大宰府周辺の諸地や陸塊交通路、博多湾や玄界灘沿海地につづいている。

~『万葉の旅・下』犬養孝著/平凡社から引用

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