| 訓読 |
1773
神奈備(かむなび)の神寄(かみよ)せ板(いた)にする杉(すぎ)の思ひも過ぎず恋の繁(しげ)きに
1774
たらちねの母の命(みこと)の言(こと)にあらば年の緒(を)長く頼め過ぎむや
1775
泊瀬川(はつせがは)夕(ゆふ)渡り来て我妹子(わぎもこ)が家の金門(かなと)に近づきにけり
| 意味 |
〈1773〉
神奈備山の神寄せ板に用いる杉のように、私の恋心も過ぎ去り消えることがない、その激しさに耐え難くて。
〈1774〉
母の言われることなので、気をもたせたまま長くやり過ごすことなどありましょうや。
〈1775〉
泊瀬川を夕方に渡ってきて、いとしい女の家の門が近くなってきた。
| 鑑賞 |
『柿本人麻呂歌集』から3首。1773は、弓削皇子(ゆげのみこ)に献上した歌。「神奈備」は、神が鎮座する山や森のことをいう普通名詞で、ここでは三輪山。「神寄せ板」は、神を寄せる板で、神事を行う前に神を招くために叩くものとされます。原文「神依板」で、カムヨセイタ、カムヨリイタと訓むものもあります。上3句は「杉」の同音反復で「思ひも過ぎず」を導く序詞。「思ひも過ぎず」の「思ひ」は、恋の嘆き。「過ぎず」は、消えない。
窪田空穂はこの歌について、「序詞は、きわめて飛躍の大きいもので、単に謡い物風に見ても特殊なものであるが、この歌にあってはそれは副次的なものとなって、嘆きとの繋がりを覘(ねら)いとしたものである。それは上代の信仰では、男女関係は一々神意によって定まるものとしていたので、神事の上では重いものである神依板は、その嘆きは神の喜び給わぬことだということを暗示するものとなるからである。すなわちこの序詞は、単に序詞にとどまらず、一首の気分に重い役をしている」と述べています。
弓削皇子(673年?~没年699年)は、天武天皇の第6皇子で、母は天智天皇の娘の大江皇女。同母兄に長皇子。持統天皇10年(696年)の太政大臣・高市皇子薨去後の、皇太子を選ぶ群臣会議で、軽皇子(後の文武天皇)をたてることに異議をとなえようとし、葛野王(かどののおう)に叱責され制止されたことで知られます。本来であれば皇位継承順位第一位となるはずだった同母兄の長皇子を推薦しようとしたのだと推測されています。
1774・1775は、舎人皇子(とねりのみこ)に献上したとある歌。1774は、女の立場での詠。「たらちねの」は「母」の枕詞。かかり方未詳。「母の命」は、母を敬っていう語。「言にあらば」は、お言葉ならば。「年の緒長く」は、いつまでも年月長く。「頼め過ぎむや」の「や」は反語で、頼みに思われないだろうか、いや思う。この歌の事情は複雑で、窪田空穂によれば、「娘が母に知らせずに男と結婚し、夫をその家へ通わせようとして、承認を得るために打明けると、母は自身としては承認するが、父や周囲の者に打明けることはしばらく時機を待ってのことにしようと言い、それを娘が男に話したところ、男はある不安を感じ、その時機というのはいつのことであろうか、ひどく先のことではなかろうかと危んだのに対して娘が、わが母のいうことなので、何年も先などということがあろうかと打消した」というものです。
1775は、許しを得た男の妻問いの歌。「泊瀬川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「金門」は、門。恋人や妻を訪ねる時には、男は夜に出かけて朝暗いうちに帰るのがエチケットとされましたが、夕方に泊瀬川を渡ったというのは、道のりが遠かったためでしょう。次第に目ざす女の家に近づいた時のはやる心が感じられる歌であり、斎藤茂吉は、「快い調子を持っており、伸々と、無理なく情感を湛えている」と評しています。なお、これらの歌がなぜ舎人皇子に献上されたかについては諸説があり未詳です。
舎人皇子は天武天皇の第三皇子で、第47代淳仁天皇の父。養老4年(720年)5月『日本書紀』を撰集して奏上、同年8月、知太政官事。神亀6年(724年)には長屋王を窮問して自尽せしめ、同年、光明子立后の宣明を宣べた人です。「舎人」の名は、乳母が舎人氏であったところから称せられたのではないかといわれます。『万葉集』には3首の歌を残しています。天平7年(735年)、60歳で没。

『万葉集』クイズ
次の歌の作者は誰?
【解答】
1.大伴家持 2.湯原王 3.大伴坂上郎女 4.山部赤人 5.山上憶良 6.紀女郎 7.大伴旅人 8.大津皇子 9.高市黒人 10.長忌寸意吉麻呂
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