| 訓読 |
1792
白玉(しらたま)の 人のその名を なかなかに 言(こと)を下延(したは)へ 逢はぬ日の 数多(まね)く過ぐれば 恋ふる日の 重なり行けば 思ひやる たどきを知らに 肝(きも)向かふ 心砕けて 玉だすき 懸(か)けぬ時なく 口やまず 我(あ)が恋ふる児(こ)を 玉釧(たまくしろ) 手に取り持ちて まそ鏡 直目(ただめ)に見ねば したひ山 下(した)行く水の 上(うへ)に出(い)でず 我(あ)が思ふ心 安きそらかも
1793
垣(かき)ほなす人の横言(よこごと)繁(しげ)みかも逢はぬ日(ひ)数多(まね)く月の経(へ)ぬらむ
1794
立ち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影(おもかげ)にして
| 意味 |
〈1792〉
白玉のような彼女の美しい名を、なまじ言葉に出さず心密かに思うだけで、逢えない日が幾日も過ぎ、恋い焦がれる日が重なっていくものだから、思いを晴らすすべもなく、心も砕けて、気にかけない時もなく、絶えずつぶやきながら、恋してやまないあの子を、腕輪のように取り持つわけでも、鏡のように直に見るわけでもないから、紅葉した山の木陰を流れる水のように表に出さず、私が思っている心は安らかであろう筈がない。
〈1793〉
垣根のように私を取り巻く他人の中傷がひどいからか、逢ってくれない日が続き、とうとう月が改まってしまったことだ。
〈1794〉
月が移り変わって、幾月経っても逢えないままだけれども、ちっとも彼女のことが忘れられない。いつまでも面影がちらついて。
| 鑑賞 |
田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の「娘子を思ひて作る」歌。娘子は誰とも分かりませんが、作者の他の歌にもある恭仁京での詠ではないかとする見方があります。その時、官人たちは妻子を奈良に残して赴任していたので、その人々の妻恋しい思いを代弁する気持ちでこういう歌を詠んだのではないか、と。それによると、「娘子」というのは、奈良に住むと設定された架空の女性と見られます。
1792の「白玉の」は、白玉(多くは真珠のこと)のような。「なかなかに」は、なまじっか。「言を下延へ」は、その人の名を心の中で思い続け。「思ひ遣る」は、悶々としている気持ちを晴らす。「たどき」は、手段、手がかり。「肝向ふ」「玉だすき」は、それぞれそれぞれ「心」「懸く」にかかる枕詞。「口やまず」は、絶えず口にして。「玉釧」「まそ鏡」は、それぞれ「手に取り持つ」「直目に見る」にかかる枕詞。「したひ山」は、紅葉した山。「下行く水の」は、山の木陰を流れる水のように。「上に出でず」は、顔に表さないで。「安きそら」の「そら」は、心。「かも」は、詠嘆を含んだ反語。
1793の「垣ほなす」は、垣根のように。「横言」は、陰口、中傷。「繁みかも」は、多いからだろうか。1794の「立ち変り」は、月が新月となり次の月になって。「さね」は、全く、ちっとも~ない、の意の副詞。「忘らえず」は、忘れられず。「面影にして」は、面影に見えて。
長歌について、伊藤博は次のように評しています。「長歌の歌い起こし『白玉の人のその名をなかなかに言を下延へ』というようなとらえ方はほかに類がない。相手の名を云々する歌は多いけれども、その名について、まず『白玉の人のその名を』と印象鮮明に提示した歌はこれ一つである。この提示が効いて、結びの『したひ山下行く水の 上に出でず我が思ふ心 安きそらかも』が際立ち、ひいて反歌へも影響を及ぼしている。うまいと思う。意を通してみて、組み立てがしっかりしていて焦点が確かなのに感心する」。
田辺福麻呂は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京、難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂や山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。

伊藤博と『万葉集』
万葉学における伊藤博(いとう はく:1925~2003年)は、戦後の『万葉集』研究において画期的な金字塔を打ち立てた偉大な万葉学者です。単に一首ごとの言葉を注釈するにとどまらず、「歌群」や「配列」の文脈から『万葉集』全体の構造と物語性を捉え直した点で、近代以降の万葉学史に極めて大きな足跡を残しました。伊藤博の万葉研究における主要な業績と特徴は以下の通りです。
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