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巻第9(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第9-1795~1799

訓読

1795
妹(いも)らがり今木(いまき)の嶺(みね)に茂り立つ夫(つま)松の木は古人(ふるひと)見けむ
1796
もみち葉の過ぎにし児らと携(たずさ)はり遊びし磯を見れば悲しも
1797
潮気(しおけ)立つ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)が形見とそ来(こ)し
1798
古(いにしえ)に妹と我(わ)が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも
1799
玉津島(たまつしま)礒の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほひて行かな妹(いも)も触れけむ

意味

〈1795〉
 今木の嶺に茂り立つ、夫の訪れを待つという松の木は、昔のあの皇子をきっと見ていたことだろう。
〈1796〉
 黄葉が散るように死んでしまった妻と、手を取り合って遊んだことのある磯を見ると悲しくなってくる。
〈1797〉
 潮煙が立つほどの荒磯だけれど、流れる水のように死んでしまったあなたを思い出す土地と思ってやって来た。
〈1798〉
 昔、私はあなたと二人して見に来たことのある黒牛潟に来たけれど、一人で見るのは寂しくてならない。
〈1799〉
 玉津島の磯の浦辺の白砂、この白砂にたっぷり染まって行きたい。亡くなったあなたも触れたであろうから。

鑑賞

 『柿本人麻呂歌集』から5首。1795は「宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮所(みやどころ)の歌」で、「挽歌」の部に入れられていますす。宇治若郎子は第15代応神天皇の皇子で、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:後の仁徳天皇)と皇位を譲り合い、宇治の宮で自殺したといわれます。『日本書紀』には百済から渡来した王仁に師事して典籍を学んだとあります。「宮所」は、ここは古く宮のあった跡の意。「妹らがり」の「ら」は接尾語、妹のもとへ今来るの意で「今木」にかかる枕詞。「今木の嶺」の所在は、未詳。「夫松の木」は、夫の訪れを待つように立つ松の意で、初句の「妹」に見立てています。「古人」は、宇治若郎子をさします。「見けむ」は、見たであろう。

 上掲の解釈とは別に、「松の木が宇治若郎子を見たことであろう」と解するものもあります。しかしそれでは作者の関心が若郎子より松の木に傾いてしまうため、ここは、作者が宮の跡地に立って遠方の峰の松の木を見て、若郎子も昔見たことであろう、と偲んでいるものとしています。

 1796~1799は、題詞に「紀伊の国にして作る歌」とある挽歌4首で、製作年代は不明ながら、かつて紀伊国に同行した妻を悼むものとなっています。そのかつてとは持統4年(690年)の行幸と考えられ、以後の紀伊国行幸が大宝元年(701年)10月しかないため、この時の作であると見られます。4首はすべて11年前の行幸の折の追憶につながっています。歌の内容が人麻呂自身の身の上のことであるとすれば、人麻呂はかつて妻と共にこの地の行幸に供奉したものの、その妻はのちに亡き人となり、このたびはただ一人で従い、往時を偲んでいることになります。

 
1796の「もみち葉の」は「過ぎ」の枕詞。「過ぎにし児ら」の「ら」は接尾語で、死んでしまった愛しい妻。1797の「潮気立つ」は、潮の匂いが立ちのぼってくる。「行く水の」は「過ぎ」の枕詞。「過ぐ」は、死ぬこと。「形見」は、故人の思い出のゆすがとなるもの。ここは物ではなく風景。1798の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「黒牛潟」は、和歌山県海南市の黒江湾のこと。黒牛に似た大石が潮の干満によって見え隠れしていました。「寂しも」の「寂し」は、楽しまぬ意。「も」は、詠嘆。1799の「玉津島」は、和歌山市和歌浦の玉津島神社の後方の山々。当時は島でした。「浦廻」は、浦の湾曲している所。「真砂」は、細かな砂。「にほひて行かな」の「にほふ」は、ここは白砂の美しい色に染まること。「行かな」の「な」は、願望。

 
斎藤茂吉は1797について、「句々緊張して然も情景とともに哀感の切なるものがある。この歌は、巻一(47)の人麻呂作、『真草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し』というのと類似しているから、その手法傾向によって、人麻呂作だろうと想像することが出来る」と述べ、他の3首も「哀深いものである」と評しています。また4句目の1799について窪田空穂は、「浦の砂を形見と見ることは、人麿の濃情からのことで、歌としても感覚的で立体感をもった、特殊なものである」と評しています。

 黒牛潟の潮干の浦は、あでやかな紅の裳裾を引く女官たちが磯遊びに興ずる場所であり、人麻呂の妻も昔はそうだったのでしょう。人麻呂が持統朝初年の頃から情熱的に愛し続けてきたこの妻が、いつ亡くなったのかは不明ですが、彼の最晩年の作としてよい大宝元年に至るまで、忘れがたい傷痕を胸に深く刻み続けていたのです。この女性が巻向の女性と同一人である可能性はかなり高いと見られています。
 


宇治若郎子(菟道稚郎子)

 宇治若郎子は、第15代・応神天皇の皇子で、仁徳天皇の異母弟にあたります。幼少の頃から書物に親しみ、百済の阿直岐、王仁などを師に迎え、典籍に通じていたといいます。応神天皇に非常に愛され、その 40年に、兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が天皇の問いに答えて、「いまだ成人せぬ少子は最もかなし」と薦めたため、兄をおいて皇太子となりました。翌年、父天皇の崩御により即位することになったものの、彼はひたすら兄の大鷦鷯尊(仁徳天皇)を推し、このため空位 3年に及びました。皇子は苦悩の末に自殺して、仁徳天皇の即位を促したとされます。その墓所は菟道宮、宇治墓といい、京都府宇治市丸山にあります。
 

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玉津島

 和歌山市和歌浦に位置し、衣通姫などを祭神とする玉津島神社が鎮座し、干潟、砂嘴、松原ともに和歌の浦の景観の中核をなす島。『万葉集』巻第6には、山部赤人が長歌に「玉津島山」と詠み、反歌に「若の浦に潮満ち来れば」の名歌を残しています。「玉津島山」は、「妹背山」「鏡山」「奠供山」「雲蓋山」「妙見山」「船頭山」の総称で、万葉の時代にはいずれも海に浮いていましたが、現在は「妹背山」のみが陸続きながら海に浮いています。
 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。