| 訓読 |
1804
父母(ちちはは)が 成(な)しのまにまに 箸(はし)向かふ 弟(おと)の命(みこと)は 朝露(あさつゆ)の 消(け)やすき命(いのち) 神の共(むた) 争ひかねて 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国に 家なみや また帰り来(こ)ぬ 遠(とほ)つ国 黄泉(よみ)の界(さかひ)に 延(は)ふ蔦(つた)の 己(おの)が向き向き 天雲(あまくも)の 別れし行けば 闇夜(やみよ)なす 思ひ惑(まと)はひ 射(い)ゆ鹿(しし)の 心を痛み 葦垣(あしかき)の 思ひ乱れて 春鳥(はるとり)の 音(ね)のみ泣きつつ あぢさはふ 夜昼(よるひる)知らず かぎろひの 心燃えつつ 悲しび別(わか)る
1805
別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我(あ)れ恋ひめやも [一云 心尽して]
1806
あしひきの荒山中(あらやまなか)に送り置きて帰らふ見れば心(こころ)苦(くる)しも
| 意味 |
〈1804〉
父母が生んでくださった順序のままに、二本の箸のように揃って育った弟は、朝露のように消えやすい命だったのか、神の思し召しに抗うことはできず、この葦原の瑞穂の国に家がないからと思うのか、二度と帰って来ない。遠い黄泉の国に、一人別れて行ったので、闇夜のように惑い続け、矢に射られた鹿のように心が痛み、葦垣のように思い乱れ、春の鳥のように声をあげて泣き続け、夜も昼も分からなくなり、途方もなく心は嘆いている、この別れを。
〈1805〉
別れてもまた逢えると思えるのなら、これほど心を取り乱して私が恋い慕うことなどあろうか。(お前だけに心を傾けて)
〈1806〉
荒涼とした山中に野辺送りを済ませ、人が次々に帰っていくのを見ていると、心が苦しい。
| 鑑賞 |
田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の「弟の死去を哀(かな)しびて作る」歌。1804の「成しのまにまに」は、父母が生んでくださった順序のままに。「箸向かふ」は、箸のように仲良く向き合っていた意で、「弟」にかかる比喩的枕詞。集中この1例のみで、仲良く生い育ち、共にあったかけがえのない思い出が込められている語句です。「弟の命」は、弟の死に対しての敬称。「朝露の」は「消」の枕詞。「神の共」は、神と共に、ここは神意のままに。「争ひかねて」は、神のお心に逆らうことができないで。「葦原の瑞穂の国」は、わが国の古名。「家なみや」は、家がないからなのか。「遠つ国」「延ふ蔦の」は、それぞれ「黄泉」「向き向き」にかかる枕詞。「己が向き向き」は、それぞれ別々の方向に。「天雲の」「闇夜なす」「射ゆ鹿の」「葦垣の」「春鳥の」は、それぞれ「別れ」「惑はひ」「痛み」「乱る」「泣き」の枕詞。「あぢさはふ」は、語義未詳で、通常は「目」の枕詞。「かぎろひの」は「燃え」の枕詞。
1805の「思ほえば」は「思ほゆ」の仮定条件で、思われるならば。「恋ひめやも」の「や」は反語、「も」は詠嘆。1806の「あしひきの」は「山」の枕詞。「荒山中」は、人の入って行かない山の中で、墓所を言ったもの。「帰らふ」は「帰る」の継続態で、野辺送りに参加した人々が、一人ずつ順に帰って行くさまを表しています。最後まで残っていての言。
弟の死に対して心を尽くして詠んでいるものであり、『万葉集』では、大伴家持が越中にあって弟の書持(ふみもち)の死を聞いて作った歌(巻第17-3957~3959)とともに、弟を悼む兄の歌の代表2作です。野辺送りに焦点を置いているのが特色とされます。ただ、長歌に枕詞が多用されていることが指摘され、「集中悪作の好例」と批判する向きもあります。これに対し窪田空穂は、「『遠つ国黄泉の界』以下は、死者として埋葬するに際しての心を、できうる限り鄭重な語をもって述べたものである。五七(の)二句をつらねるごとに、その一句には必ず枕詞を据えて、九回まで繰り返している。意識し用意してのこととみえるが、これは他に例の見えないものである。一首の歌として見て、深い悲哀を湛えながらも、同時に華麗な趣をもったもの」と述べています。
田辺福麻呂は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京、難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂や山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。

挽歌について
死は人間が避けることのできない事象の一つであり、古来、身近な人の死や敬愛する人の死、そして、やがて訪れる自らの死を、どのように捉え克服していくのかが、文学に託された一つの課題であったといえます。平安時代から現代に至るまでの、日本人の死葬儀礼や死生観に深く結びついてきたのは主に仏教ですが、仏教が伝わる以前の上代には、わが国独自の古い死生観に基づく儀礼がとり行われ、それらを反映する神話や歴史叙述、歌謡や和歌が記されました。
『万葉集』にも、人の死に関わる歌が多く収載されています。『万葉集』は、雑歌・相聞・挽歌という三大部立を基本構造として持ち、人の死に関わる歌は主に「挽歌」の部に収められています。つまり『万葉集』における「挽歌」は、天皇や宮廷に関わる公的儀礼歌である「雑歌」や、恋の歌である「相聞」と並ぶ重要な位置を占めていたのです。ここから、当時の人々が死や死葬文化をいかに重要視していたかが分かります。ただ、平安期以降の勅撰和歌集では、人の死に関わる歌は哀傷(または哀傷歌)の部に収められ、挽歌という部立名は使われなくなりました。従って、挽歌は多くの和歌集のうち『万葉集』だけにしか見えない呼称となっています。
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