| 訓読 |
1819
うち靡(なび)く春立ちぬらし我が門(かど)の柳の末(うれ)に鴬(うぐひす)鳴きつ
1820
梅の花咲ける岡辺(おかへ)に家居(お)れば乏(とも)しくもあらず鶯(うぐひす)の声
1821
春霞(はるかすみ)流るるなへに青柳(あをやぎ)の枝くひもちて鶯(うぐひす)鳴くも
1822
我が背子(せこ)を莫越(なこし)の山の呼子鳥(よぶこどり)君呼び返せ夜(よ)の更けぬとに
1823
朝ゐでに来(き)鳴くかほ鳥(どり)汝(なれ)だにも君に恋(こ)ふれや時(とき)終へず鳴く
| 意味 |
〈1819〉
春になったらしい。家の門にある柳の梢(こずえ)で、たった今ウグイスが鳴いたよ。
〈1820〉
梅の花が咲き誇る岡のほとりに住んでいるので、(春の情緒を味わうのに)ちっとも物足りないことはない。ウグイスの鳴き声が、すぐそばで豊かに聞こえてくるのだから。
〈1821〉
春霞が流れるにつれて、青柳の枝を口にくわえるかのようにして、ウグイスが鳴いていることだ。
〈1822〉
莫越の山の呼子鳥よ、私の大事なあの人を呼び返してちょうだい。夜が更けないうちに。
〈1823〉
朝、井堰に飛んで来て鳴く貌鳥よ、お前まであの方に恋いこがれているのか、終わる時もなく鳴き続けている。
| 鑑賞 |
「鳥を詠む」作者未詳歌5首。1819は、立春を迎えての鶯の初鳴きの叙景。「うち靡く」の「うち」は、接頭語で、春は草木が柔らかく靡く意で「春」にかかる枕詞。「柳の末」は、柳の梢、枝の先端。国内によく植えられているしだれ柳は、古く中国から渡来した樹木で、春から夏、細長い葉が茂ると「青柳」と呼びます。また、柳は、春早くに芽吹き、また、枝を湿地にさし立てるだけで根をおろすことがあるほど生命力の旺盛な樹木であるため、呪力をもつ神木と考えられていました。「鶯鳴きつ」の「つ」は、意志的な動詞につく「つ」で、無意志的な動詞には「ぬ」がつくのが習いで、「鳴く」は無意志的動詞ですが、ここは鶯が意志をもって鳴いていると見ています。
1820の「咲ける岡辺」は、咲いている岡のあたり。「家居る」は、家を構えて住んでいる、暮らしている意。「乏しくもあらず」は、不足していない、物足りなくない。転じて、存分に堪能できる、満ち足りている、という意味。「家居れば」という言葉には、わざわざ出かけずとも最高の春が向こうからやってくるという、静かな自足の念が込められており、日常の中にある贅沢を、淡々と、しかし誇らしげに詠い上げています。自然の恵みを素直に受け入れる万葉人の幸福な精神性が窺える歌です。
1821の「霞」は、たなびくという表現が多いなかにあって「流れる」としたのは、中国の詩に影響されたのではないかといいます。「なへに」は、折しも、~するにつれて、の意。「青柳」は、芽吹いたばかりの柳のこと。「くひもちて」は、鶯が柳の細い枝を口にくわえて、あるいはその枝に止まって口を寄せている様子を指します。流れる霞、青柳、花の枝をくわえて飛ぶ鳥(花銜鳥:はなくいどり)の3つの道具仕立ても中国趣味らしくあります。花銜鳥の模様は東大寺の刀剣文様などにも見られ、当時の王朝の人々に愛されたようです。この歌もそうした図案から連想して作ったものかもしれません。
1822の「我が背子を」は「莫越」の枕詞。いとしい夫を越えさせないで留めてほしい、の意でかかります。「莫越の山」は、所在未詳。「な越し」で、山を越すなという意味にとれます。「呼子鳥」は、愛しい人を呼ぶ鳥の意で、どの鳥であるかは未詳ながら、カッコウではないかとされます。「更けぬとに」は、夜が更けないうちに。「と」は外の意で、夜更け前を夜更けの範囲外と見た表現。莫越の山を越えて帰って行く夫に対しての心残りと、夜道の山越えを心配している女の歌です。
1823の「ゐで」は、水汲み場として川の流れをせき止めたところ。「かほ鳥」は未詳ながら、カッコウか。カッコウのコに着目した呼び名が「呼子鳥」で、カに着目した呼び名が「かほ鳥」とも言われます。「汝だにも」は、お前のような者さえも。「君に恋ふれや」は、疑問的条件句で「君に恋ふればや」の意。「君」は、作者の夫。かほ鳥にとっての愛しい人と見る説もあります。「鳴く」は「や」の結びで連体形。

『万葉集』に詠まれた鳥
1位 霍公鳥(ほととぎす) 153首
2位 雁(かり) 66首
3位 鶯(うぐいす) 51首
4位 鶴(つる:歌語としては「たづ」) 45首
5位 鴨(かも) 29首
6位 千鳥(ちどり) 22首
7位 鶏(にわとり)・庭つ鳥 16首
8位 鵜(う) 12首
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