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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-1837~1840

訓読

1837
山の際(ま)に鴬(うぐひす)鳴きてうち靡(なび)く春と思へど雪降りしきぬ
1838
峰(を)の上(うへ)に降り置ける雪し風の共(むた)ここに散るらし春にはあれども
1839
君がため山田の沢(さは)にゑぐ摘(つ)むと雪消(ゆきげ)の水に裳(も)の裾(すそ)濡れぬ
1840
梅が枝(え)に鳴きて移ろふ鴬(うぐひす)の羽(はね)白妙(しろたへ)に沫雪(あわゆき)ぞ降る

意味

〈1837〉
 山あいではウグイスが鳴いていて草木も靡く春だと思われるのに、まだ雪が降り続いている。
〈1838〉
 峰の上に降り積もっている雪が、吹き降ろす風とともにここまで飛び散って来るようだ。もうとっくに春になっているというのに。
〈1839〉
 あの方のために、山田の沢でえぐを摘み取ろうとして、雪解け水に裳裾が濡れてしまった。
〈1840〉
 梅の枝から枝へと鳴いて飛び移っているウグイスの、その羽根が真っ白になるほど、沫雪が降っている。

鑑賞

 「雪を詠む」作者未詳歌4首。1837の「山の際」は、山と山の間。「うち靡く」は「春」の枕詞。「降りしきぬ」は、しきりに降っている。シクは、しきりに~する意。前歌とともに季節の矛盾を詠んでおり、鶯の初音という視覚的・聴覚的に「春」と認識できる要素が揃っているにもかかわらず、結句で「雪降りしきぬ」と言い切る構成により、季節の不一致が際立たされています。また、「思へど」という表現は、自然現象そのものよりも、それを受け取る詠み手の認識の揺らぎを示しており、春を信じたい心と、なお厳しい寒さを前にした現実感覚との間の葛藤がにじみ出ています。

 
1838は左注に「筑波山にて作れる」とあり、巻第10の中で作歌の場所を語るのはこの1例のみです。「峰の上」は、筑波山の山頂。「風の共」は、風ととともに。「雪し」の「し」は、強意の副助詞。「ここに散るらし」の「ここ」は、作者がいる場所、「らし」は、確信的な推定。春になったはずの現在地点と、なお冬が留まる峰の上とを空間的に対置し、季節の「ずれ」を立体的に描いた一首と見られますが、窪田空穂は、「高山に馴れない作者が、春、筑波山に登り、たまたまそこで見かけた雪の状態の珍しいのに興をもっての歌である。京の人で、その方面に旅していた人とみえる」と述べています。

 
1839の「山田」は、丘陵地帯にある田。「ゑぐ」は、池や沼などの湿地に生えるカヤツリグサ科の多年草クロクワイのことで、根を食用にします。「裳」は、女性が腰から下に着用する衣服。妻が夫に贈ったゑぐに添えた歌とされ、窪田空穂は、「品物を贈る際、贈り主の心のこもった物であることをいうのは、古来よりの風習となっていることで、『裳の裾ぬれぬ』は、儀礼としてその労苦をいったのである。相手を重んずる心より起こった風習である」と述べています。

 また、本歌は、これまでの歌群に見られた気象・景物中心の季節表現から一歩進み、人の生活行為を通して春の到来を描いた一首です。雪や霞、鶯といった自然の徴に代わり、「ゑぐ摘む」という具体的な行動が春の成立を裏づけるものとして提示されている点に特徴があります。さらに、雪解け水は冬の終わりを告げる存在であると同時に、新たな生命を育む源でもあります。裾を濡らす冷水の感触は、厳しさと希望の両義性を持つ春の本質を象徴しているといえ、前歌までで繰り返し詠まれてきた「雪」は、ここではもはや空から降るものではなく、水へと姿を変え、生活の中に取り込まれています。

 
1840の「鳴きて移ろふ」の「移ろふ」は「移る」の継続態で、鶯が鳴きながら枝から枝へと移るさま。「白妙に」の「白妙」は、梶の木の皮の繊維で織った白い布で、白く清らかなものの形容。「沫雪」は、泡のように消えやすい雪。「沫雪ぞ降る」の「ぞ」は係助詞、「降る」はその結びで連体形。梅・鶯・雪という3つの代表的景物を一首の中に凝縮し、早春の繊細な美を描き出した歌です。鶯が梅の枝を移ろいながら鳴くという、きわめて春らしい情景がまず提示されますが、そこに「沫雪」が降りかかることで、春の確立がなお仮初めであることが示されます。冬と春とが調和的に共存する瞬間を捉えた一首であり、『万葉集』季節歌の中でもとりわけ絵画的・抒情的完成度の高い作品と評価されます。

 
窪田空穂は、この歌を、「耽美気分の濃厚な作」として手腕のある作者の歌と言い、見たままの情景や、心に思ったことを素直に詠うことが「歌の真(まこと)」であると主張する賀茂真淵は、「見たるさまを其のままいひつらねたるが、おのづからうるはしき歌となりたるなり」と評しています。
 


作者未詳歌

 『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。

 7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、畿内圏のものであることがわかります。

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賀茂真淵と『万葉集』

 江戸中期の国学者・賀茂真淵(1697〜1769年)にとって、『万葉集』は単なる古典の研究対象を超え、彼の思想や文学観の根幹をなすものでした。真淵が『万葉集』に何を見出し、それをどのように紐解いたのか、その業績と功績を整理します。

  1. 「ますらをぶり」の提唱
     真淵の文学観を象徴する言葉が「ますらをぶり(益荒男風)」です。彼は『古今和歌集』以降の王朝和歌に見られる繊細で優美な「たをやめぶり(手弱女風)」を、技巧に走りすぎた「やせたる(生命力の乏しい)」ものとして批判しました。これに対し、『万葉集』に溢れる、飾り気がなく、力強く、素朴で雄大な気風(特に東歌や防人歌、柿本人麻呂の歌など)を「健き(たけき)心」「直き(なおき)心」として絶賛しました。歌は理屈や技巧ではなく、内から湧き出る自然な感情をそのまま詠むべきだという、真淵の理想がここにあります。
  2. 独自の万葉集研究と主著
     真淵は、師である荷田春満の遺志を継ぎ、独自の文献学的なアプローチで『万葉集』の解読を進めました。当時はすでに難解になっていた万葉の言葉(古語・枕詞など)を、客観的な文脈や訓法の精査によって実証的に読み解いていきました。

    ●『万葉考』
     『万葉集』の本格的な注釈書。全巻の完成には至りませんでしたが、巻一・巻二、および巻十一・巻十二などの詳細な語釈と評釈を行い、後世の万葉研究の基礎を築きました。
    ●『冠辞考』
     万葉和歌を理解する上で不可欠な「枕詞」を系統的に研究・分類した画期的な書物です。
    ●『歌意考』
     自身の和歌論・文学観を理論的にまとめた論考で、「古代の心(古意)」へ立ち返ることの重要性を説いています。
  3. 国学の発展と後世への影響
     真淵の『万葉集』研究は、単に文学の好みを語るものではなく、「古道(こどう)」――儒教や仏教といった外融の思想に染まる前の、日本本来の清く真っ直ぐな精神性――を追求するための方法論でもありました。この「万葉の調べを通じて古代の精神を復古する」という姿勢は、門下生である本居宣長へと受け継がれます。宣長は真淵の意志を継ぎつつ、研究の対象を『古事記』へと広げ、国学を一大体系へと発展させることになります。また、明治期に正岡子規らが提唱した「短歌写生説」や万葉回帰の動きも、真淵の「ますらをぶり」の系譜に連なるものと言えます。

     真淵の言葉(『歌意考』より要約)に、「今の人は、平安時代の雅びな言葉ばかりを真似て歌を作ろうとするが、それは形骸化した言葉の遊びにすぎない。言葉が直く、心が雄大であった万葉の時代に立ち返ってこそ、真の歌が生まれるのである。」というものがあります。真淵によって『万葉集』は、単なる古い歌集から「日本人の心の原点」へと高められたと言えます。
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。