| 訓読 |
1859
馬(うま)並(な)めて多賀(たか)の山辺(やまへ)を白栲(しろたへ)ににほはしたるは梅の花かも
1860
花咲きて実はならねとも長き日(け)に思ほゆるかも山吹(やまぶき)の花
1861
能登川の水底さへに照るまでに御笠(みかさ)の山は咲きにけるかも
1862
雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞(はるかすみ)立ち梅は散りつつ
1863
去年(こぞ)咲きし久木(ひさぎ)今咲くいたづらに地(つち)にか落ちむ見る人なしに
| 意味 |
〈1859〉
馬を連ねて手綱をたく、そのたくではないが、多賀の山辺を真っ白に染めているのは、梅の花々だろうか。
〈1860〉
花は咲いても実はならないけれども、咲くまでが長く思われて仕方がない、山吹の花よ。
〈1861〉
能登川の水底までが輝くほどに、御笠山の桜の花が咲いていることだ。
〈1862〉
雪を見ていると、いまだ冬であるけれども、春霞がかかって、梅の花は散り始めている。
〈1863〉
去年咲いていた久木が今また咲いているけれど、むなしく土に落ちるのか、見る人が誰もいないままに。
| 鑑賞 |
「花を詠む」作者未詳歌5首。1859の「馬並めて」は、馬を操る意で、馬の手綱を操る意の動詞「たく」の類音で「多賀」にかかる枕詞。「多賀」は、京都府綴喜郡井手町多賀。「白栲に」は、ここは白色に。清楚・神聖・晴れやかさを象徴する語であり、山の景が非日常的な美に包まれていることを示しています。「にほはしたる」は、美しい色に染めている。「梅の花かも」の「かも」は、疑問的詠嘆。遠景から近景へ、あるいは抽象的印象から具体的対象へと視点が収斂していく構成になっており、まず雄大な山辺の白い輝きとして提示し、最後にそれを梅の花と同定することで、自然の美しさが一層鮮やかに浮かび上がっています。
1860の「花咲きて実はならねども」は、山吹の特性を踏まえた表現。山吹は、バラ科の落葉低木で、晩春に黄色い5弁の花を咲かせます。一重咲きと八重咲きがあり、後者は実を結ばないといいます。「長き日に」の「日(け)」は、日数。花は実を結ばないにもかかわらず、見る者の心には長く思われるという逆説に、山吹の花の美の本質が示されており、結果や実利を伴わない存在であっても、なお人の心に深く残る価値があるという感覚が示されています。前歌が、山辺一面を白く染める梅の壮麗さを詠んでいたのに対し、本歌は一輪の花の性質に着目し、その静かな余韻を味わっています。また、「花」は求婚時代、「実」は結婚の譬えであり、実らない恋のもどかしさを歌っているとの解釈もあります。
1861の「能登川」は、春日山の奥から出て、御笠山と高円山の間を西に流れ、佐保川に合流する小川。御笠山(御蓋山)は奈良市東方、春日山の一峰で、笠を伏せたような端正な形をしています。「能登川の水底さへに照るまでに」は、能登川の水面のみならず、その底にまで光が届くほど、周囲が明るく照り映えている様子を誇張的に表現した句であり、その原因として提示されるのが、「御笠の山は咲きにけるかも」です。水面に映る花や紅葉は、後に『古今集』の歌人の好んだところであり、この歌はその美意識を先取りしているといえます。
1862の「しかすがに」は、けれども、そうはいうものの、の意。「梅は散りつつ」のツツ止めは、上に「は」を用いる時は、余情のこもる文末用法となります。冬と春という相反する季節が、同一の時間・空間の中に同時に存在しているという認識から、雪・霞・梅という3つの自然要素を並置することで、早春特有の不安定で重層的な季節感が的確に表現されています。冬の名残を抱えつつ、すでに始まっている春の動きを静かに見据え、どちらか一方に断定せず、「冬なり」と「春なり」がせめぎ合う状態をそのまま詠み取る姿勢に、万葉人の自然観の写実性がよく表れているとされます。
1863の「久木」は未詳ながら、落葉高木のアカメガシワと考えられています。夏に咲く花は白に近く、あまり目立ちません。結句の「見る人なしに」は、この歌の核心といえ、久木の花は去年も今年も変わらず咲いているのに、それを眺め、愛でる人がいない。その不在によって、花の美は完成されず、空しく地に落ちてしまうという感慨が強く表出されています。自然の循環と人の不在とを対照させ、前歌までが、季節の移ろいそのものを詠じていたのに対し、本歌では、自然美が「見る人」によって初めて意味づけられるという、人間中心的ともいえる感覚が前面に出ています。

さき(崎・咲き・幸)
サキは、漢字を宛てれば「先」「前」「崎」などさまざまだが、原義としては、あるものが外側の世界に向かって突き出たその先端をいう。外側の世界との接触の場であり、外側の世界の霊威を真っ先に受感する場でもある。
この意味のサキは、「崎」がいちばんわかりやすい。陸地が海に向かって突き出たところが崎である。崎は海の彼方からやって来る異界の霊威が真っ先に依り憑く場所とされた。異界の霊威は神そのものとも考えられたから、崎の突端にはそうした神を祀る社が設けられていることが多い。このような崎は、一般には「み崎(岬)」と呼ばれるが、ミは聖性を示す接頭辞だから、そこが神の支配する領域であることを示す。み崎は、異界の霊威の依り憑く場であるとともに、異界へ向かう場所ともされた。
異界の霊威が依り憑く場所がサキだが、それを動詞化したのが「咲く」である。動詞「咲く」も、崎と同様、語の基底には、神を迎え、神と交わる意がある。この「咲く」は、枝のサキ(先端)に季節の霊威が宿り、その霊威の発動によって花が開くことを意味する。「花」もハナ(端・鼻)であり、サキと同様、ものの先端を意味する。み崎(岬)のように海に突き出た地形を「・・・鼻」と呼ぶ例もある。動物の鼻も、顔の中央から突き出ているからハナと呼ばれる。「花」も植物の先端に「咲く」ものゆえ、ハナと呼ばれた。
花が咲くところには、霊威がしきりに発動している。その霊威の発動している状態、霊威の充ち満ちている状態を、さかり(盛り」といった。この「盛り」と同根と見てよいのが動詞「栄ゆ」である。「咲く」が花に宿る霊威の顕著な発動を意味したように、「栄ゆ」もそこに宿る霊威や生命力が充実した力を発揮して、そのさまが外部に現れ出ている状態を意味する。
「栄ゆ」と同根で、やはり霊威の盛んな発動を意味する言葉にサキハフ(幸はふ)がある。サキハフのサキは「咲き」に重なる。動詞サク(咲く)の連用形名詞だが、この場合は用字としてしばしば「幸」が用いられる。ハフは「延ふ」で、ニギハフ(賑はふ)などのハフと同じく、ある力が周囲に向かって水平的に広がるさまを示す。空間全体に霊威が及んで、満ち足りた状態になることを意味する。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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