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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-1877~1879

訓読

1877
春の雨にありけるものを立ち隠(かく)り妹(いも)が家道(いへぢ)にこの日暮らしつ
1878
今行きて聞くものにもが明日香川(あすかがは)春雨(はるさめ)降りてたぎつ瀬の音(おと)を
1879
春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(をとめ)らし春野のうはぎ摘(つ)みて煮(に)らしも

意味

〈1877〉
 何のことはない、濡れても大したことがない春雨だったのに、途中で雨宿りしていたために彼女の家に着くまでに日が暮れてしまった。
〈1878〉
 今すぐ出かけていって聞きたいものだ。明日香川に春雨が降り注ぎ、激しく流れる瀬の音を。
〈1879〉
 春日野に煙が立ち上るのが見えるよ。 若い娘たちが集まって春の野のうはぎを摘んで煮ているのだろうな。

鑑賞

 作者未詳歌3首。1877は「雨を詠む」歌。「立ち隠る」の「立ち」は動作の開始・継続を表し、「隠り」は身を寄せて雨をしのぐ意。春雨のために、どこかに立ち止まって雨宿りしている様子を表しています。「妹が家道」は、妻の家に行き着くまでの道。「この日暮らしつ」は、実際は妹の家に着くのがずいぶん遅くなったことへの嘆きを誇張する表現と見えます。あるいは、妻の家に辿り着けなかった無念さを歌いながら、浮気して他の女の家に居続けたことを、とぼけて弁明したものと解することもできます。

 
1878は「川を詠む」歌。「聞くものにもが」の「もが」は願望で、聞けるものならよいのに。「たぎつ」は、激しい勢いで流れる意で、春雨で水かさが増した流れのことを言っています。春雨そのものではなく、それによって生じる川の激流の響きを聞こうとする姿勢は、自然を総合的・感覚的に捉えようとする万葉的感性をよく示しているものです。春は穏やかな季節として多く描かれますが、本歌では「たぎつ」という語により、春の内に潜む力動性が強調されています。奈良京遷都後の、かつて故京の明日香に住んでいたことのある人の歌と見え、同様に明日香への郷愁を詠んだ歌は集中に多く見えます。

 
1879は「煙を詠む」歌。「春日野」は、奈良市の東部、春日山の麓の緩やかな台地で、今の奈良公園を含む一帯にあたります。宮廷からも近く、当時の都人にとって格好のレジャーランドだった場所です。「娘子らし」は、娘子の複数形に強意の「し」を添えたもの。「うはぎ」は、キク科の嫁菜(よめな)のことで、当時から代表的な春の摘み草であり、柔らかい葉や茎を食用にしていました。薄紫色の花が、夏の終わりから秋の終わりごろまで咲き続けます。「煮らしも」の「らし」は根拠に基づく推定、「も」は詠嘆。

 「春野のうはぎ」という具体的な生活語が導入されることで、春が単なる観念的季節ではなく、食と労働を伴う現実の季節として意味づけられています。また、煙は労働の痕跡であると同時に、野の景に人の温もりを添える象徴的存在となっています。ここに歌われている春の若菜摘みは、国見行事の一つであり、それを食すると長寿が保たれるという信仰に基づいて行われ、また、その行事は生産の予祝につながる若い女性たちのなすものとされていました。男たちはそれらをほのぼのとした憧憬の心をもって眺めていたようで、長閑で太平和楽な春の光景が浮かんできます。
 


ヨメナ

 『万葉集』では「うはぎ」と詠まれているヨメナは、野原や道端に生えるキク科シオ属の多年草植物。当時から代表的な春の摘み草であり、柔らかい葉や茎を食用にしていました。薄紫色の花が、夏の終わりから秋の終わりごろまで咲き続けます。本州(中部地方以西)、四国、九州に分布し、道端やあぜ道、土手などに群生しています。「ヨメナ」の名の由来は、嫁菜とも夜目菜とも言われ、はっきりしていません。一説には、美しく優しげな花を咲かせるため「嫁」の名がつくといわれ、あるいは、古くから女性が好んで摘んだのでこの名があるともいわれます。

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万葉集ゆかりの地(奈良)

  • 春日野
    「春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも」(巻第10-1879)
    春日山地西麓一帯の野で、こんにち奈良公園となっているところ。
  • 春日山
    「秋されば春日の山の黄葉見る奈良の都の荒るらく惜しも」(巻第8-1604)
    奈良市街地東方の春日山・御蓋山・若草山と呼ばれる山々の総称。
  • 佐紀山
    「春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく」(巻第10-1887)
    平城宮の北方、東西に連なる低い丘陵。
  • 佐保川
    「打ち上る佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも」(巻第8-1433)
    春日山中に発し、北の山裾を巡って市街の北郊で吉城川をあわせ、佐保を西へ流れ、法華寺の南方で南に曲がり、率川・能登川をあわせ、大和郡山を過ぎ磯城郡川西町吐田で初瀬川に合流する川。
  • 高円山
    「高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば」(巻第20-4506)
    奈良市の南東、春日山の南に峠道を隔てて続く山(標高432m)。
  • 奈良山
    「君に恋ひ甚も術なみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも」(巻第4-593)
    平城京北方に連なる、佐保山・佐紀山を含む低山・丘陵地の総称(標高100m内外)。
  • 能登川
    「能登川の水底さへに照るまでに御笠の山は咲きにけるかも」(巻第10-1861)
    春日山の奥から出て、御笠山と高円山の間を西に流れ、佐保川に合流する小川。
  • 東の市
    「東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり」(巻第3-310)
    平城京の東西二つにに置かれた市のうちの東の市。平城京左京八条二坊にあり、今の奈良市杏(からもも)町にあたります。
  • 宜寸川(よしきがは)
    「我妹子に衣春日の宜寸川よしもあらぬか妹が目を見む」(巻第12-3011)
    春日山に発し佐保川に合流する吉城川。
  • 三笠山
    「大君の三笠の山の黄葉は今日の時雨に散りか過ぎなむ」(巻第8-1554)
    奈良市東部、春日大社後方にある御蓋山(標高297m)。円錐形の山の形から「み笠」と言われます。
 
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。