| 訓読 |
1919
国栖(くにす)らが春菜(はるな)摘(つ)むらむ司馬(しま)の野のしばしば君を思ふこのころ
1920
春草(はるくさ)の繁(しげ)き我(あ)が恋(こひ)大海(おほうみ)の辺(へ)に行く波の千重(ちへ)に積(つ)もりぬ
1921
おほほしく君を相(あひ)見て菅(すが)の根の長き春日(はるひ)を恋ひわたるかも
1922
梅の花咲きて散りなば我妹子(わぎもこ)を来(こ)むか来(こ)じかと我(あ)が松の木ぞ
1923
白真弓(しらまゆみ)今(いま)春山に行く雲の行きや別れむ恋しきものを
| 意味 |
〈1919〉
国栖の人々が春菜を摘むという司馬の野、その名のように、しばしばあなたのことが思われてならないこのごろです。
〈1920〉
春草の茂るようにしきりにつのる私の恋心は、大海の岸辺に打ち寄せる波のように幾重にも積もっている。
〈1921〉
おぼろげにあなたの姿を見かけたばかりに、菅の根のように長い春の一日を、ひたすら恋続けています。
〈1922〉
梅の花が咲いて散ってしまったら、あなたが来てくれるのか来てくれないのか、私は待っている松の木であるよ。
〈1923〉
春山に流れゆく雲のように、君はここで去って別れなければならないのか、私は恋しくてならないのに。
| 鑑賞 |
作者未詳歌5首。1919~1921は「草に寄せる」歌。1919の「国栖」は、吉野川上流の国栖(くず)あたりに住んでいた人々。『日本書紀』に「289年に応神天皇が吉野に行幸なさった時、国栖人は酒を献上し、歌舞を奏して歓迎した。その地は京の東南、山を隔てた吉野川のほとりにある。峰は高く谷は深く道は険しい。人々は純朴で日頃は木の実を採って食べ、また、蛙を煮て上等の食物としている」旨の記述があります。ここでは、都人の視線から見た素朴で平穏な春の営みの象徴として用いられています。「春菜摘むらむ」の「らむ」は、ここは伝聞。「司馬の野」は、所在未詳。上3句は「司馬」の同音反復で「しばしば」を導く序詞。
1920の「春草の」は「繁き」の枕詞。「春草の繁き」は「我が恋」を導く譬喩式序詞。「大海の辺に行く波の」は「千重に」を導く譬喩式序詞。繁る草(陸の生命)と千重なす波(海の躍動)の性質の異なる二つの自然要素を並置することで、恋の強度と広がりが立体的に表現されていると言えますが、窪田空穂は、「大げさにその恋を訴えたものである。拙い歌である」と評しています。
1921の「おほほしく」は、おぼろげに、ぼんやりと。「菅の根の」は「長き」の枕詞。「菅の根」は、地上では目立たないものの、地下で長く伸び広がる性質をもち、ここでは、表面には現れにくい、しかし確実に長く続くという恋心の性格が重ねられています。「長き春日を」は、長い春の日なのに、その一日を、の意。「恋ひわたるかも」の終助詞「かも」によって、自己の状況を半ば驚き、半ば受容する心情がにじんでいます。
1922は「松に寄せる」歌。上2句は、女の気が変わったらの意を匂わせており、また「我妹子を来むか来じかと」とあるので、女の方から男の家へ通ってくるという仲だったと見えます。「松」は「待つ」との掛詞。結句の「我が松の木ぞ」は象徴的であり、松は、常緑で長く生き、動かずに立ち続けることから、不変・忍耐・待機の象徴として古来用いられてきました。詠み手は自らを松に喩え、相手の来訪を、時間の経過に耐えながら待ち続ける覚悟を表明しています。窪田空穂は、「男が自分の家へ女を来させて逢った翌日、後朝の歌の心で贈ったものである。特別な事情に即してのものであり、また歌を松の枝に結びつけて贈るにつけ、その松に自身のかわらぬ心をもたせ、その関係で眼前の梅の花と対照させるなど、複雑な、技巧的な歌である」と述べていますが、伊藤博は、「諧謔味を強めるために、わざと男が女を待つとうたっている。宴などで興じられた歌なのであろう」と言っています。
1923は「雲に寄せる」歌。「白真弓」は、白木の真弓を張る意で「春」にかかる枕詞。「今春山」は、今こそ春だとばかりに茂る山。上3句は「行き」を導く同音反復式序詞。「行きや別れむ」の「や」は、疑問的詠嘆。「恋しきものを」の「ものを」は、逆接の詠嘆。上掲の解釈では旅に行く人を見送る歌としていますが、「行きや別れむ」の主語が曖昧なため、君ではなく作者自身とする見方もあります。佐佐木信綱は、「愛人に別れて遠く旅に出で立つ男の歌である。眼前属目の景を取って序としたところ、巧妙で適切で、しかも情趣縹緲、饒かに浪漫的気分を湛えている」と言っています。

『日本書紀』
日本最古の勅撰歴史書。全30巻。六国史の筆頭で、『古事記』とあわせて「記紀(きき)」という。天武天皇の第3皇子舎人(とねり)親王が、勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂、養老4年(720年)に完成、朝廷に献じられた記録がみえる。第1・2巻は神代、第3巻以下は神武天皇の代から持統天皇の代の終わり(697年)までを、年紀をたてて編年体に配列してある。その記事内容は、① 天皇の名・享年・治世年数・皇居の所在地を列記した帝紀、② 歴代の諸説話・伝説などの旧辞、③ 諸家の記録、④ 各地に伝えられた物語、⑤ 詔勅、⑥ 壬申の乱の従軍日記などの私的記録、⑦ 寺院縁起、⑧ 朝鮮・中国の史書の類から成っている。『古事記』と関係が深く、『古事記』と同様に天皇中心の中央集権国家の確立にあたっての理論的・精神的な支柱とすることを目的としている。ただし、『古事記』が一つの正説を定めているのに比し、『日本書紀』は諸説を併記するなど史料主義の傾向がある。また、『古事記』が国語表現をでき得る限り表記しようとしているのに対し、歌謡など一部を除いて徹底的な漢文表記となっており、漢籍、類書、仏典を用いた漢文的潤色が著しいものとなっている。
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後朝の別れ
「後朝(きぬぎぬ)」は、「妻問い婚」が普通だった上代の恋愛における男女の別れの場面を表す言葉で、特に男性が女性の家を訪れて一夜を共にした翌朝、夜が明けて互いの衣を身につけて別れることを指します。この別れの場面を「きぬぎぬの別れ」とも言います。また、男性が帰宅後に女性に送る手紙を「後朝の文」と呼び、その手紙に添えられる和歌を「後朝の歌」と呼ぶこともあります。なるべく早く出すのが、当時のマナーであったようです。
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古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |