| 訓読 |
1949
霍公鳥(ほととぎす)今朝の朝明(あさけ)に鳴きつるは君聞きけむか朝寐(あさい)か寝けむ
1950
霍公鳥(ほととぎす)花橘(はなたちばな)の枝(えだ)に居(ゐ)て鳴き響(とよ)もせば花は散りつつ
1951
うれたきや醜(しこ)ほととぎす今こそば声の嗄(か)るがに来鳴き響(とよ)めめ
1952
今夜(こよひ)のおほつかなきに霍公鳥(ほととぎす)鳴くなる声の音の遥(はる)けさ
1953
五月山(さつきやま)卯(う)の花月夜(はなづくよ)霍公鳥(ほととぎす)聞けども飽かずまた鳴かぬかも
| 意味 |
〈1949〉
ホトトギスが今朝の明け方に鳴いていましたが、あなたはお聞きになったでしょうか、それとも朝寝をしてお聞きにならなかったのでしょうか。
〈1950〉
ホトトギスが花橘の枝にとまって、声を響かせて鳴き立てるものだから、花ははらはらと散り落ちる。
〈1951〉
ああ、いまいましい、ろくでなしのホトトギスめ。今の今こそやってきて、声のかすれるまで鳴き立てくれればよいのに。
〈1952〉
今宵の、月がなくて心細い気持ちでいる時は、ホトトギスの鳴く声が、遥か遠くに音を立てて響いてくる。
〈1953〉
五月の山に、卯の花がほの白く浮かぶ美しい月夜、こんな夜のホトトギスの声はいくら聞いていても飽きない。まだまだ鳴いてくれないだろうか。
| 鑑賞 |
作者未詳の「鳥を詠む」歌5首。1949の「朝明」は夜から朝へ移り変わる端境の時。「聞きけむか」「寝けむ」の「けむ」は、過去推量の助動詞。「朝寐」は、朝の熟睡。妻が夫に贈った歌であり、後半の「君聞きけむか朝寐か寝けむ」は、相手に向けた問いかけで、霍公鳥の声を共有できたかどうかを気遣い、聞こえなかった可能性を惜しむ心と、相手の眠りを思いやる優しさとが重なり合っています。単なる事実確認の問いではなく、同じ時間と自然を分かち合いたいという願いに他ならず、それを共有できなかったかもしれないという思いが、歌に切なさを与えています。窪田空穂は、「当時の人々は早起きであり、また『朝明』という時刻は、この時代には物思わしい時刻としていたことが他の歌で知られる。ここもそれで、妻は夫恋しい心を抱いてほととぎすを聞いたのである」「きわめて何気ない語に、夫の疎遠を恨む心をからませていったもので、才女を思わせる歌である」と述べています。
1950の「花橘」は、花の咲いている橘の木で、歌語。「花は散りつつ」のツツ止めは、上に「は」を用いる場合、余情のこもる文末用法となります。「橘」は、季節感を示すのみならず、万葉・古典和歌ではしばしば万年(長寿)・永遠性を暗示する語としても用いられますが、ここは、鳥の動的な生命力と、花の散るはかなさとが対照され、季節の盛りから衰へへの移行が暗示されています。初夏の華やぎの中に、避けがたい無常を見出す感受性が、簡潔な構成の中に凝縮された一首と言えます。
1951の「うれたきや」は、待望と失望とが交錯した感嘆の語であり、ああ腹立たしい、嘆かわしいの意。「醜ほととぎす」の「醜」は、罵りの気持ちをこめた言葉ですが、愛憎入り混じった感情が込められています。「今こそば」は、「まさに今こそ〜(してほしい)」という願望的強調を表す言い方。「声の嗄るがに」の「がに」は、するほどに。「響めめ」は、上の「こそ」の係り結びで、「響む」の未然形「響め」に推量の助動詞「む」の已然形「め」が接続したもの。勧誘・希望を表現する語。素朴で感情的な語調の中に、自然と人との親密な関係を感じさせる、『万葉集』ならではの一首と評されます。
1952の「おほつかなきに」は、暗くて辺りがはっきり分からず心細いこと。景と情の融合された表現。「声の音の」の表現が異様であるとして、作歌に熟した人の作ではない、音数のために不用意に重ねたもの、などの批判があります。一方、伊藤博は「時鳥の声としては聞こえず、遠くからの音響として聞こえてくることをいったものか」と述べ、土屋文明も「余響位の意で用いたと見える」と言っています。「音の遥けさ」は、物理的な距離だけでなく、心理的な隔たりや、手の届かぬものへの憧憬をも感じさせ、歌全体に余韻を与えています。また、明確な感情を直接述べることなく、音の印象のみで心情を示す点に、この歌の洗練された抒情性が認められるところです。
1953の「五月山」は、五月の頃の山。「卯の花月夜」は、卯の花が咲いている月夜。「鳴かぬかも」の「ぬか」は、打消の助動詞「ぬ」に疑問の「か」が接続して願望を示すもの。「も」は、詠嘆。作家の田辺聖子は、「この巻は平均的な風流の歌が多いが、『さつき山・卯の花月夜・ほととぎす』とイメージの札が次々と重ねられていくところがたのしい」と言っています。また窪田空穂は、「『五月山卯の花月夜ほととぎす』と、名詞だけを三つ続けて、一助詞をも用いていないのであるが、それがいささかの無理もなく、鮮明に印象されて来る」と述べています。

おほ
オホは、オボロ(朧)、オボメクのオボと同根で、明瞭でない状態、ぼんやりとした様を示す形状言。霞や霧などを比喩として、視覚の不確かさ、不分明さを示すことが多い。また、いい加減なさま、通り一遍なさま、なおざりなさまを示すこともある。
オホホシは、オホから派生した形容詞で、不十分な状態を示すとともに、それを歌い手の不安定な心情、晴れやらぬ思いに結びつける。ここでも霞や霧が比喩に用いられることが多い。オホツカナシも、オホから派生した形容詞だが、やはり対象のぼんやりしたありかたから生ずる不安や頼りなさを示す。オホロカも、やはりオホから派生した形容動詞で、この場合は、いい加減なさま、通り一遍なさまを示すところに意味は限定される。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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