| 訓読 |
1954
霍公鳥(ほととぎす)来居(きゐ)も鳴かぬか我(わ)がやどの花橘(はなたちばな)の地(つち)に落ちむ見む
1955
霍公鳥(ほととぎす)いとふ時なし菖蒲草(あやめぐさ)縵(かづら)にせむ日こゆ鳴き渡れ
1956
大和(やまと)には鳴きてか来(く)らむ霍公鳥(ほととぎす)汝(な)が鳴くごとになき人思ほゆ
1957
卯(う)の花の散らまく惜(を)しみ霍公鳥(ほととぎす)野に出(い)で山に入(い)り来(き)鳴き響(とよ)もす
1958
橘(たちばな)の林を植(う)ゑむ霍公鳥(ほととぎす)常(つね)に冬まで棲(す)みわたるがね
| 意味 |
〈1954〉
ホトトギスよ ここに来て枝に止まって鳴いてくれないか。わが家の庭の橘の花が散るのを見ていたい。
〈1955〉
ホトトギスの声はいつ聞いても嫌な時はないが、菖蒲草で髪を飾る日には、必ずここを鳴き渡ってくれよ。
〈1956〉
大和には、今ごろ来て鳴いているだろうか、ホトトギスよ。お前が鳴くたびに亡き人が偲ばれてならない。
〈1957〉
卯の花が散ってしまうのを惜しんでか、ホトトギスは、野に出たり山に帰ったりしながら鳴き声を響かせている。
〈1958〉
橘の木をたくさん植えて林にしよう。ホトトギスがいつも、さらに冬になっても棲みついてくれるように。
| 鑑賞 |
作者未詳の「鳥を詠む」歌5首。1954の「来居」は、来て止まって。「ぬか」は、願望で、「も~ぬか」と呼応して多く用いられます。「来居も」という表現には、単に通り過ぎるのではなく、しばし留まってほしいという気持ちが読み取れます。「やど」は、家の敷地、庭先。「花橘」は初夏を代表する香り高い花であり、同時に散りやすい存在として詠まれることが多く、本歌でも、そのはかなさが後半の心情を支えています。自然に語りかけながら、時の不可逆性を強く感じ取る作者の感受性が、簡潔な言葉の中に凝縮された一首と言えます。
1955の「いとふ時なし」はホトトギスに向って言った言葉で、嫌な時はない。「あやめぐさ」は、水辺に群生する菖蒲(しょうぶ)。「縵」は、つる草や草木の花枝を巻きつけて髪飾りとしたもの。「縵にせむ日」は端午の節句の5月5日のことで、この日に、菖蒲草(あやめぐさ)を縵(かづら)にして飾る習俗がありました。「こゆ」は、ここを通って、ここから。本歌は、ホトトギスの鳴き声を忌むべきものでも、待ち焦がれるだけのものでもなく、生活と年中行事の中に自然に受け入れている点に特徴があります。自然と人の暮らしとが調和する、『万葉集』ならではの素朴で健やかな抒情を備えた一首です。
1956は、大和の人が旅先にあって、その地のホトトギスの鳴き声を聞き、大和でも来て鳴いているだろうかと、故人(おそらく妻)のことを偲んでいる歌です。当時、人が死ぬと、その霊魂がホトトギスの形を取って、生前に心を寄せていた地へ来るという信仰があり、それを踏まえています。この発想に立つ歌が、集中ほかにも見られることで知られます(巻第2-111、112など)。自然の現象を媒介として人間の内面を描き出す、万葉集的抒情の典型例と言え、華美な修辞を避け、平明な語り口によって、かえって深い哀切を生み出している点に特色があります。
1957の「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。「惜しみ」は「惜し」のミ語法。「野に出で山に入り」は、単独母音イが2つあるので、許容される9音の字余り句。「卯の花」は初夏を象徴する代表的な花であり、その白さと儚さは、盛りを過ぎれば急速に失われる季節の美を象徴するものです。卯の花の「消えゆく美」と、霍公鳥の「響き渡る声」とを対照的に組み合わせることで、季節の無常と共に、その中に満ちる生命の力を鮮やかに描いています。前歌の追憶的・内省的な情調に対し、本歌は外界描写を中心とした明朗で伸びやかな抒情となっています。
1958の「林を植ゑむ」は、木をたくさん植えて茂らせて林を作ろう、の意。「棲みわたる」の「わたる」は、~し続ける意の補助動詞。「がね」は、希望的推測の終助詞。この歌について、窪田空穂は次のように説明しています。「渡り鳥の霍公鳥を居つかせようとの思いつきである。渡り鳥であることに男の性分を認め、常緑の木であることに女の性分を認め、『住み渡る』という、男が妻としての女の家に居つく意の語を用いて、そのことを明らかにしている。気分化して、婉曲に上品にいっているため、さりげない、底を割らないものになっている。貴族的な歌である」。

『万葉集』と日本文化
(奈良県立万葉文化館のホームページから引用)
国際化社会・グローバル化した社会に生きている私たちは、つねに自分たちと異なった文明・文化に接する機会を持ちながら生きています。時には文明同士で衝突したり、文化のギャップが顕在化することだってあります。そうした時代状況のなかでは、個別の文化に固有なものと普遍的なものがあることをおたがいに認識しあうことが重要です。
文化には、文字化して蓄積できるものと、文字化できないものがあります。文字化して蓄積された資料や書物のうち、社会に共有されるべき財産となっているものが古典です。
『万葉集』は、7世紀と8世紀を生きた日本人の生きた声を伝える歌の全集ともいうべきものです。現在、『万葉集』は古典のなかの古典ともいうべき位置を占め、国民文化の象徴としての役割を果たしています。『万葉集』に日本人の遠い祖先のありのままの声が反映されているかどうかには疑問もありますが、万葉を学ぶことが伝統的短詩系文学の基礎となっていることは疑いないことです。なぜなら、日本人が長く伝えた短歌という詩の形式は、『万葉集』の時代に確立されたものだからです。
日本の修史事業は、7世紀に始まって、8世紀初頭に「古事記」と「日本書紀」として結実します。この修史事業が行われたのが、日本古代国家の基礎が築かれた時代でした。漢字・儒教・律令・仏教を基とした国作りが急がれ、これらを共通項とする中国文化圏の辺境の一国家として、日本は歩みつづけてゆくのです。天皇を中心とした律令国家が形成されたのは、この時代でした。この時代に形成された国家の運営システムは長く日本社会を規定し、省・大臣という呼称や、道などの行政単位名も長く踏襲されてゆくのです。7~8世紀の歴史を学ぶことは、日本の歴史や文化の基を学ぶことなのです。
この時期の歌々を収載する歌集こそが『万葉集』です。万葉歌を学ぶことは、日本の国家のグランド・デザインを作った人びとの肉声を聞くことです。この時期の都は、近畿地方のなかでもとくに奈良県に集中していました。飛鳥京(592~694)・藤原京(694~710)・平城京(710~784)はすべて奈良県にあり、奈良県はかつて万葉の都が置かれていた土地ということができるでしょう。
奈良県は、万葉の都の歴史遺産とともに歩む街であり、『万葉集』のふるさとでもあります。今日の国際化社会において第一に求められているのは、みずからの文化を自覚的に認識し、それを発信して相互理解を深めることです。そういう時代の要請に応えて、全国的・国際的な『万葉集』に関する情報発信拠点を作ろうと私たちは考えました。そこで万葉文化館には、『万葉集』を伝統的な日本画によって理解してもらうための美術館機能、万葉の時代を体感するための博物館機能、『万葉集』の研究と研究情報の蓄積と発信を行う研究所機能が備わっています。万葉文化館は、これらの活動を通じて、『万葉集』と万葉文化の発信をし続けていきたい、と考えています。

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