| 訓読 |
1969
我が宿(やど)の花橘(はなたちばな)は散りにけり悔(くや)しき時に逢へる君かも
1970
見わたせば向ひの野辺(のへ)のなでしこの散らまく惜(を)しも雨な降りそね
1971
雨間(あまま)明けて国見(くにみ)もせむを故郷(ふるさと)の花橘(はなたちばな)は散りにけむかも
| 意味 |
〈1969〉
我が家の庭の花橘はすでに散ってしまいました。こんな時にあなたにお逢いするのがとても残念です。
〈1970〉
ここから見わたすと、向こうの野にナデシコが咲いている。散ってしまうのが惜しいから、雨よ降らないでおくれ。
〈1971〉
雨が晴れて国見をしようと思うのに、故郷の橘の花は、この雨のためにもう散ってしまっただろうか。
| 鑑賞 |
「花を詠む」作者未詳歌3首。1969の「宿」は、家の敷地、庭先。「花橘」は、花の咲いている時の橘の称。「悔しき時」は、せっかくの花橘が散ってしまったあとに相手が来たことを残念に思っていることを言っています。また、「かも」という詠嘆は、相手を責めるというよりも、運命の巡り合わせを嘆く作者自身の心情を和らげつつ表現しています。前歌(1968)と似る女の立場の歌と見えますが、この歌は類想が多く、来訪した客に対して、挨拶の心をもって詠んだ社交上の歌であるともされ、「花橘」の代わりに色んな花の名を入れて使えそうな歌です。
1970の「なでしこ」は、秋の七草の一つとして知られ、可憐さや愛らしさを象徴する花です。『万葉集』では、しばしば女性や子への愛情、あるいは繊細な美の象徴として詠まれ、本歌においても、なでしこは単なる植物ではなく、失われてほしくない存在として、強い愛惜の対象となっています。「向ひの野辺の」とあることで、手の届かない距離にあることが暗示され、後半の「散らまく惜し」の感情をより強く印象づけています。「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。散るであろうこと。「雨な降りそね」の「な~そね」は、懇願的な禁止。
1971の「雨間明けて」は、雨と雨との間、すなわち降り続いていた雨が一時的にやんだ状況。「国見」は、高い所に上って広い展望を楽しむこと。本来は支配や祝福を意味する公的行為ですが、ここでは広く周囲を眺め、心を解き放つ行為として私的に転用されています。しかし、その意欲は直ちに「を」という逆接的な助詞によって遮られ、視線は外界へ向かおうとしながらも、心は「故郷の花橘」へと引き戻されています。「故郷」は、奈良遷都後の藤原京または明日香古京。「散りにけむかも」は推量と詠嘆を含む表現であり、事実を確認できない距離と時間の隔たりが強調されます。すでに散ってしまったのではないかという思いは、花の盛りの短さへの嘆きであると同時に、故郷から遠く離れている自らの立場への寂しさをも映し出しています。
1969で歌われている「橘」は、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の代に、非時香菓(ときじくのかくのみ:時を定めずいつも黄金に輝く木の実)を求めよとの命を受けた田道間守(たじまもり)が、常世(仙境)に赴き、10年を経て、労苦の末に持ち帰ったと伝えられる植物です。しかしその時、垂仁天皇はすでに崩御しており、それを聞いた田道間守は、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺しました。次代の景行天皇が田道間守の忠を哀しみ、垂仁天皇陵近くに葬ったとされます。そうした伝説が影響してか、宮廷の貴族たちは好んで庭園に橘を植えたといいます。

『日本書紀』
日本最古の勅撰歴史書。全30巻。六国史の筆頭で、『古事記』とあわせて「記紀(きき)」という。天武天皇の第3皇子舎人(とねり)親王が、勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂、養老4年(720年)に完成、朝廷に献じられた記録がみえる。第1・2巻は神代、第3巻以下は神武天皇の代から持統天皇の代の終わり(697年)までを、年紀をたてて編年体に配列してある。その記事内容は、① 天皇の名・享年・治世年数・皇居の所在地を列記した帝紀、② 歴代の諸説話・伝説などの旧辞、③ 諸家の記録、④ 各地に伝えられた物語、⑤ 詔勅、⑥ 壬申の乱の従軍日記などの私的記録、⑦ 寺院縁起、⑧ 朝鮮・中国の史書の類から成っている。『古事記』と関係が深く、『古事記』と同様に天皇中心の中央集権国家の確立にあたっての理論的・精神的な支柱とすることを目的としている。ただし、『古事記』が一つの正説を定めているのに比し、『日本書紀』は諸説を併記するなど史料主義の傾向がある。また、『古事記』が国語表現をでき得る限り表記しようとしているのに対し、歌謡など一部を除いて徹底的な漢文表記となっており、漢籍、類書、仏典を用いた漢文的潤色が著しいものとなっている。
【PR】
『万葉集』に詠まれた植物
1位 萩 142首
2位 こうぞ・麻 138首
3位 梅 119首
4位 ひおうぎ 79首
5位 松 77首
6位 藻 74首
7位 橘 69首
8位 稲 57首
9位 すげ・すが 49首
9位 あし 49首
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |